2011年05月22日

140. 名所江戸百景71 にい宿のわたし

名所江戸百景シリーズの第71弾、今回は、にい宿のわたしである。

にい宿のわたし.jpg

この絵は、渡しの亀有側から北東方面を望んだ絵であろう。筑波山が見えている。手前には渡しを待つ客向けに茶でも出すのであろう、店か宿のような建物が見える。中川には帆船が浮かんでいる。向かう先は河口方面、もう暫くすると北十間川と合流する。それを右に折れ、浅草から隅田川に入り、日本橋川を右に入り、河岸に荷を下ろすのであろうか。

日本橋を起点に始まる江戸脇街道の一つ、水戸道中。その、千住宿と松戸宿の間に位置するのが新宿(にいじゅく、しんじゅくではない。)。中川を挟んで亀有とその新宿を渡すのが新宿の渡しである。

新宿は、直ぐ南にある葛西城の城下町として、後北条氏により作られた町である。1538年(天文7年)、後北条氏は、葛西城を獲った。それを知った房総の足利義明小弓公方は危機感を募らせ、戦をすることを決める。それが国府台合戦だ。

明治13年(1880年)の地図

にい宿のわたし.JPG

新宿は江戸から外れているので切絵図ではカバーしていない。そこで明治の地図だ。宿場によくある鍵型の道となっている。

現在の地図


より大きな地図で にい宿のわたし を表示

道がそのまま残っている。

ここ新宿は、現在の地図にあるように、水戸道中、佐倉道と、陸上交通の重要な場所であった。又、中川は水上交通で重要な位置を占め、又、既述のように、江戸の前、戦国時代から葛西城の城下町として栄えた場所だった。にも拘らず、開発から逃れられたのは、鉄道による開発を拒否したからである。当時、新宿の渡しは、中川橋建設に伴い廃止されていた。その中川橋は民間による運営で、渡し賃を徴収していた。その収益が無くなるのを恐れたのである。

そこでの写真

cameraroll-1305944970.282277.jpegにい宿のわたし.jpg

最後に、葛西城跡に造られた御殿山公園での葛西城説明板より葛西城の地図

cameraroll-1305944985.148519.jpeg

以上
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2011年04月28日

139. 名所江戸百景70 高輪うしまち

名所江戸百景シリーズの第70弾、今回は、高輪うしまちである。

高輪うしまち.jpg

海は品川湾、虹とお台場も見えている。手前には、牛車の車輪がクローズアップで、広重お得意の構図である。

江戸時代、牛車は京都・駿府・江戸・仙台・箱館などの限定した都市でしか使用されておらず、馬車の営業は明治時代に入ってから。人力による荷車輸送も全国的な展開はなく、西欧社会に比べて車両交通の未発達は江戸時代の特色になっている。江戸における牛車利用は、寛永11年(1634年)、増上寺安国殿を普請するにあたり京都から牛持ち人足を呼び、木材や石材の運搬にあたらせたことに始まる。この牛は江戸城の拡張にも用いられ、これらの工事が完了すると、牛持ち人足は江戸に定住し、車町(牛町)が作られていった。それ以来、江戸では牛車による荷物の運搬が行われ、牛は山王祭や神田祭にも使われるようになった。

安政5年(1858年)の地図

高輪うしまち.JPG

東海道は海沿いだった。『車町』の文字が見えるが、広重はここから東を望んだのである。ここ高輪のランドマーク、泉岳寺、高輪大木戸も確認できる。

現在の地図


より大きな地図で 高輪うしまち を表示

ブルーポイントで泉岳寺、高輪大木戸をポイントした。赤ポイントは広重推定立ち位置、赤ラインは推定視線。しかし、海は遥か彼方だ。

そこでの写真

cameraroll-1303984497.895348.jpeg高輪うしまち.jpg

悲し過ぎる。

悲しいので海まで歩くことに。

途中、高輪名物高さ制限1.5mのトンネル

cameraroll-1303984494.430219.jpeg

歩いて20分、ようやく到着。

cameraroll-1303984490.571800.jpeg高輪うしまち.jpg

お台場が見える。

戻り、高輪大木戸

cameraroll-1303984500.753177.jpeg

最後に、他の絵

江戸名所図会 高輪牛町

高輪牛町.jpg

東都三十六景 高輪海岸

東都三十六景 高輪海岸.jpg

惺々暁斎 東海道 高縄牛ご屋

東海道 高縄牛ご屋.jpg

以上
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2011年04月27日

138. 名所江戸百景69 綾瀬川鐘ヶ淵

名所江戸百景シリーズの第69弾、今回は、綾瀬川鐘ヶ淵である。

綾瀬川鐘ヶ淵.jpg

この絵は、隅田川西岸から、綾瀬川合流口を望んだ絵である。手前にアップで合歓の木を配置している、広重お得意の構図である。隅田川には筏が描かれている。ここは綾瀬川が合流することもあり、昔の舟人からは航路の難所として恐れられ、とくにその名が高くなった所。いざ、向かわん、と、いったところか。

筏に乗る男の装束、腕と足を捲り上げ夏を思わせる。はねたのわたし弁天の社での男の足と同じである。又、合歓の木は夏の季語であり、よって、この絵は夏の絵である。

『鐘ヶ淵』の地名は、隅田川がこの辺で直角に曲り、これが大工の使う指矩に似ていることから名付けられたと言われる。又、隅田川西岸、石浜にあった普門院が亀戸村に移転する際、その梵鐘が川に落ち、今にいたるまで引き揚げられずに沈んでいるという伝説から名付けられたとも言われている。

安政5年(1858年)の地図

綾瀬川鐘ヶ淵.JPG

隅田川が見事に直角に折れ曲がっている。その曲がり口に綾瀬川が合流している。その辺りに『鐘ヶ淵』の文字も確認できる。又、左には奥州道も確認できる。

現在の地図


より大きな地図で 綾瀬川鐘か淵 を表示

隅田川の様子はそのままだ。綾瀬川と隅田川の間には荒川が出来ている。赤ポイントが広重推定立ち位置、赤ラインは推定視線。

そこでの写真

cameraroll-1303650246.874533.jpeg綾瀬川鐘ヶ淵.jpg

合歓の木は無いが、雰囲気は出ているか。

以上
posted by Yogi at 07:21| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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