2011年06月03日

143. 名所江戸百景74 南品川鮫洲海岸

名所江戸百景シリーズの第75弾、今回は、南品川鮫洲海岸である。

南品川鮫洲海岸.jpg

画面右上に筑波山と、その左には日光連山が見える。この絵は、鮫洲海岸沖合から、筑波山、日光連山といった北方の山並、海岸沿いに走る東海道と、第一の宿場、品川宿、品川浦での海苔の養殖の様子を鳥瞰したものである。

1251年、品川の漁師の網に掛かった鮫の腹を割いたところ、木造の観音像が出て来たという。この観音像をご本尊に開かれた寺が海晏寺である。いつしか、門前の地を鮫洲と呼ぶようになった。

明治13年(1880年)の地図

南品川鮫洲海岸.JPG

ここ鮫洲は江戸切絵図から外れている。だから明治13年の地図。

真ん中を南北に走っている道が東海道、その東側は海、品川浦である。真ん中に海雲寺と海晏寺が見える。この辺りが鮫洲海岸だ。

現在の地図


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東海道も残っているし池上通も残っている。海雲寺と海晏寺もそのままだ。

そこでの写真

cameraroll-1307111270.946619.jpeg南品川鮫洲海岸.jpg

広重の推定立ち位置に立てたとしても、鳥瞰は出来ない。なので、東海道を撮った。このすぐ右側が海岸だった。

海晏寺

cameraroll-1307111274.911325.jpeg

参道はR15によって分断されている。

以上
posted by Yogi at 23:41| 東京 ☀| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月28日

142. 名所江戸百景73 水道橋駿河台

名所江戸百景シリーズの第73弾、今回は、水道橋駿河台である。

水道橋駿河台.jpg

この絵は、本郷台地の上から、神田川に架かる水道橋越しに、駿河台の町を俯瞰したものである。
手前には鯉のぼりのドアップ、広重お得意の構図であるが、鯉が、非常にダイナミックに、まるで生きているかのように描かれていて迫力がある。

鯉のぼりは、五月の初めの午の日、端午の節句に行われる、奈良時代から続く古い行事だ。奈良・平安時代の端午の日は、災厄を避けるための行事が行われる重要な日だった。宮廷ではこの日、軒に菖蒲やよもぎを挿し、臣下の人々は菖蒲を冠に飾ったり、菖蒲の葉の薬玉を柱に下げたりした。鎌倉時代には、武家の間から菖蒲と尚武をかけてこの日を大切にする気風が生れた。江戸時代には、端午は幕府の重要な式日となり、大名や旗本は江戸城に出仕し将軍にお祝を述べ、世継が生れると、城中にたくさんの幟や作り物の遣り、長刀、兜などを立てて盛大にこれを祝った。

江戸中期になると庶民の間から鯉のぼりが生れた。幟を立てられない庶民は、中国に古くから伝わる登竜門の伝説になぞらえ、竜門の滝を登り切ると鯉が竜になるように、我子も健康に育ち、将来は大きく出世して欲しいとの気持を込め、鯉を掲げたのである。よく見ると、鯉のぼりの向こう側、駿河台の武家町には鯉のぼりは無く幟が立っているのが見える。

さて、駿河台の地名だが、家康江戸入府に伴って連れてきた駿河の国の役人を住まわせたことに由来する。

安政5年(1858年)の地図

水道橋駿河台.JPG

松平駿河守の上屋敷を始め、ずらりと武家屋敷が並んでいる。

現在の地図


より大きな地図で 水道橋駿河台 を表示

神田川はそのまま残っている。水戸殿は後楽園になっている。後楽園の東の道、本郷通りを始め、道もほぼそのまま残っているのが分かる。

そこでの写真

cameraroll-1306400634.350793.jpeg水道橋駿河台.jpg

ビルが邪魔で駿河台の町並みは見渡せないし、富士山も見えない。

以上
posted by Yogi at 09:18| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月22日

141. 名所江戸百景72 四ツ木通用水引ふね

名所江戸百景シリーズの第72弾、今回は、四ツ木通用水引ふねである。

四ツ木通用水引ふね.jpg

この曳舟は、篠原村から亀有村の間で行われていた。遠くに筑波山が見えるから、篠原村から亀有方面を望んだ絵である。

『篠原』とはどの辺りのことであろうか。現在の地図を、曳舟川沿いに見ても地名が残っていない。

明治13年(1880年)の地図

四ツ木通用水引ふね2.JPG

真ん中に『篠原村』を配置した。左上から右下に流れる川は綾瀬川、左下から右上に流れるのが曳舟川である。その合流点の北川が篠原村である。

安政5年(1858年)の地図

四ツ木通用水引ふね.JPG

西光寺の北で曳舟川に合流と言うか、沿って流れているのは中井掘である。

現在の地図


より大きな地図で 四ツ木通用水引ふね を表示

曳舟川は曳舟川通りという道路となり、中井掘も道路になっている。白髭神社と西光寺は当時のまま残っている。黒い線で表したのは古代東海道である。安政5年の地図には認められないが明治13年の地図にははっきりとそれが認められている。

そこでの写真

cameraroll-1305944946.335893.jpeg四ツ木通用水引ふね.jpg

曳舟川は所々親水公園になっている。それを撮った。

しかし、地図を見ても分かる通り、曳舟川は真っ直ぐである。広重の絵のように蛇行していない。が、蛇行している方が素敵だ。

以上
posted by Yogi at 10:14| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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