2011年09月11日

江戸川区(葛飾)の歴史A弥生時代

弥生時代は、BC300年〜紀元後300年頃のことを言う。約600年間と、縄文時代の11,700年間に比べると随分短い。
縄文海進のピークは約6,000年前。弥生の頃には、徐々に海も引き、川や海が運んだ土砂により微高地が形成され、下総台地や本郷台地から人々も移動してきて、葛飾でも人々の営みが再開した。

さて、葛飾区と江戸川区には、合計6つの弥生時代遺跡がある。

[葛飾区]

・遺跡番号1: 水元飯塚
 低地微高地 包蔵地
 [弥][奈][平]

・遺跡番号4: 古録天東
 低地微高地 集落 77,200u [古]住居 [奈][平]住居 生産遺構
 [弥][古][奈][平][中]

・遺跡番号8: 御殿山・葛西城址
 低地微高地 集落・城館 [古]住居 ピット 土坑 溝
 [中]掘立柱建物 土坑 ピット 井戸 溝 堀 [近]水田 都史−葛西城跡
 [弥][古][奈][平][中][近]

[江戸川区]

・遺跡番号1: 上小岩
 集落跡
 弥生〜近世

・遺跡番号9: 勢増山
 包蔵地
 弥生?

・遺跡番号10: 椿町
 包蔵地
 弥生?

地図を見てみよう。

[葛飾 弥生時代 遺跡地図]


より大きな地図で 葛飾 弥生時代 遺跡地図 を表示

全体に、中川放水路より東側に固まっているのと、川沿いに立地しているのが特徴だ。
川沿い立地は、川が運ぶ土砂により微高地が形成されることが原因であろう。海は引いたとはいえ、地盤は軟弱だろうし、洪水を考えれば、少しでも高い方が良い。
中川放水路より東側の理由は何か。地形図を見ると分かる。

[葛飾 弥生時代遺跡 地形図]

地形図_弥生時代遺跡.JPG

中川放水路より東側の方が、若干ではあるが、海抜が高い。東京低地は、地盤沈下の影響が大きいので何とも言い難いが、下総台地に近い東側の方が、その張り出しの影響を受け、海抜が高いのかもしれない。

それでは現場視察に出掛けよう。何かしら痕跡があるのは、江戸川区の上小岩遺跡だけである。

[江戸川区 上小岩遺跡]

IMG_0724.JPG

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現場に何か残っているわけではないが、モニュメントや区の解説板などがある。この遺跡は、1952年に、中学生が、自宅裏の用水から土器片を見付け、担任の先生に報告したことがキッカケとなり発掘された。先生が、面倒がらずに、生徒のピュアな訴えに、真摯に対応したのだろう。

又、郷土資料室には、 上小岩遺跡と椿町遺跡の出土品が展示されていた。

[上小岩遺跡 出土品]

cameraroll-1312688806.824223.jpeg

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古墳時代前期のものかもしれないが、載せておく。最後の土器は、S型口縁台付カメといい、東海地方にしか見られないもので、ということは、当時から、地域間の交流があったということだ。ロマンである。

[椿町遺跡 出土品]

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紋様が確認できるが、縄で付けた跡ではない。木の棒のようなもので付けられた紋様のようだ。弥生時代の特徴。

再開した葛飾での人々の営み。狩猟と漁業中心の縄文時代から、大陸からの渡来人がもたらした技術や道具により、農耕中心の弥生時代に移行し、人々は定住し、コミュニティも大きくなった。東海地方との交流もあったようで、なんだか嬉しい。

次回は、古墳時代。

以上
posted by Yogi at 23:45| 東京 ☀| Comment(0) | 町・村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月22日

江戸川区(葛飾)の歴史@縄文時代

名所江戸百景シリーズも、桜の時期も過ぎ、紅葉の時期まで間が開く。そこで、新たなテーマを検討してみた。道、川(跡)、町・村と、一通り回ったのでネタも尽きてきた。色々と検討した結果、原点に返り、我が街・江戸川区の歴史を遡ってみたいと思う。

新シリーズ、『江戸川区(葛飾)の歴史』のスタートである。

尚、御存知の方も多いかと思うが、江戸川区は、その昔、『下総国葛飾郡』であった。だから、(葛飾)と、している。

さて、縄文時代、葛飾は海だった。縄文海進と呼ばれる海水面の上昇、概ね3〜5m、高いところでは10数mも、現在の海水面より高かったという。それは、貝塚が教えてくれる。

[Wiki、『縄文時代の遺跡一覧』より、貝塚のみピックアップした地図]


より大きな地図で 縄文貝塚地図 を表示

なんと!、最も奥は、渡良瀬遊水地の辺りまで、海だったのである。

何故、渡良瀬遊水池にまで海が入り込んだのか?

理由は簡単である。海抜が低いからだ。地形図を見てみよう。

[東京低地地形図 全体図]

地形図_東京低地全体図.JPG

[渡良瀬遊水池付近]

地形図_渡良瀬遊水地付近.JPG

[江戸川区付近]

地形図_江戸川区付近.JPG

[市川市 貝塚付近]

地形図_市川市貝塚.JPG

最も低いのは、我が街、江戸川区、葛飾区。渡良瀬遊水池の辺りも、海抜10数mだ。又、貝塚も、幾分海抜のある台地上に多くプロットされている。

と、いうことは、葛飾の歴史は弥生時代から・・・?!と、決めつけるのは早計だ。縄文海進は、ピークが約6,000年前。縄文時代は約12,000年前〜BC3世紀だから、12,000年前〜6,000年前は、陸地だったのだ。その証拠に、葛飾区と江戸川区には、ちょうど一つずつ、縄文時代の遺跡が登録されている。

・葛飾区

 遺跡番号: 15
 遺跡名: 柴又河川敷
 所在地: 柴又五・六丁目
 遺跡の概要: 低地微高地 包蔵地 [不]溝 土坑
 時代: [縄][弥][古][奈][平][中][近]

・江戸川区

 遺跡番号: 2
 遺跡名: (無し)
 所在地: 南小岩五丁目新中川放水路敷
 遺跡の概要: 低地 包蔵地
 時代: [縄早]

それでは早速、自転車で現場視察である・・・

が、保存されている、せめて、何か痕跡が分かるような遺跡は殆ど無いのが現実だ。今回で言えば、[江戸川区 遺跡番号2]は、何も残っていない。

と、いうことで、葛飾区の柴又河川敷遺跡に現場視察である。

[柴又河川敷遺跡]

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ここも、何も無い…のではないのだ。ここは、縄文時代の痕跡が、今尚、肉眼でハッキリと確認出来る非常に貴重な場所なのだ。

[GoogleMapsによる空撮写真]


大きな地図で見る

写真の川は江戸川だが、透き通って岩盤が見えると思う。何と! これは、縄文海進により削られ残った下総台地の岩盤なのである。

この岩盤は、大潮の干潮と、江戸川水門の開門が重なった時に確認できる。現場視察時は、大潮の干潮だったが、数日続いた大雨の影響で、水量が多く、岩盤の露出は無かった。が、増水により流量と流速が早くなった江戸川の流れは、この岩盤に当たり、ここだけ、流れが逆流し、上流からの流れとぶつかって、渦を巻いていた。

縄文早期、まだ海進する前、約6,000年以上前に、葛飾には、縄文人が住んでいた。その後、縄文海進により、数千年、歴史が途切れる。次、葛飾で人々の営みが再開されるのは弥生時代だ。

次回は、弥生時代。

以上
posted by Yogi at 23:00| 東京 ☁| Comment(2) | 町・村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月15日

150. 名所江戸百景81 千住の大はし

名所江戸百景シリーズの第81弾、今回は、千住の大はしである。

千住の大はし.jpg

この絵は、千住大橋南岸、東寄りから、千住大橋越しに上流方面、北西方面を望んだ絵である。隅田川には秩父の山々から切り出した木材を運ぶ大型の帆船が浮かび、画面奥には秩父か日光か、連山が見える。千住大橋を渡った向こう側には、千住宿も見えている。

千住大橋が架けられたのは、家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月、隅田川では最初の橋となる。橋が架けられた後は、白鬚橋付近にあった橋場の渡しから、この千住大橋に、佐倉街道、奥州街道、水戸街道が移った。

千住大橋は何度も改架、改修が行われ、計6回に及ぶ。明治18年(1885年)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸300年を生き抜いた名橋と言われる。

千住大橋といえばもう一つ、芭蕉だ。

『旅立ち』

弥生も末の七日、曙の空朧々として、月は在り明けにて光をさまれるものから、富士の峰幽かに見えて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心細し。睦ましき限りは宵より集いて、舟に乗りて送る。千住というところにて舟を上がれば、前途三千里の思い胸に塞がりて、幻のちまたに離別の涙を注ぐ。

行く春や鳥啼魚の目は涙

これを矢立ての初めとして、行く道尚進まず。人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆる迄はと、見送るなるべし。

光景が目に浮かぶような、美しい文章だが、一方で、では何故旅に出たのか? とも、思う。

安政5年(1858年)の地図

千住の大はし.JPG

現在の地図


より大きな地図で 千住の大はし を表示

日枝神社、誓願寺、スサノオ神社(牛頭天王)は、今でも在る。

そこでの写真

cameraroll-1310464580.969500.jpeg千住の大はし.jpg

現在の地図を見ても少し分かりづらいが、ここら辺りの隅田川南岸は、高いコンクリートに覆われ、ちょうど良い場所で撮影できない。写っている橋は実は日比谷線の鉄橋である。

と、いうことで、千住大橋の写真も。

cameraroll-1310464589.518503.jpeg

橋は、広角の絶好の被写体である。

以上
posted by Yogi at 20:43| 東京 ☀| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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