2010年07月04日

32.行徳(本行徳〜河原)

権現道から成田道に出て、左に曲がり、行徳街道に出る。

行徳街道沿いには、行徳の地名の由来に関わる行徳神明社がある。

写真1: 行徳神明社

行徳神明神社.JPG

大永7年(1527年)金海法印という山伏が、伊勢内宮の土砂を中州(江戸川区東篠崎町辺り)の地に運び、内外両皇大神宮を勧請して、神明社を建立した。金海法印は土地の開発と、人々の教化に努め、徳が高く、行いが正しかったことから多くの人から「行徳さま」と崇め敬われたと言われている。

この神明社が行徳神明社である。

葛飾記によれば、「惣て行徳と名付る事、本行徳金剛院の開山行人よりして起る」とある。
葛飾誌略では、「行徳といふ地名は、其昔、徳長けたる山伏此処に住す。諸人信仰し行徳と云いしより、いつとなく郷名となれりと。云々。其後、此庵へ出羽国金海法印といふもの来たりて、行徳山金剛院といふ。・・・天文11年(1542年)也」とある。

尚、金剛院は、亨保年間(1716〜1736)に廃寺となり、聖観音像を二俣の福泉寺に移している。

行徳神明社の近くには、大徳寺と自性院がある。

写真2: 大徳寺

大徳寺.JPG

東京芝、増上寺の末、元和元年(1615年)建立。かつて、増上寺36世祐天大僧正を通して勅許を得た時の鐘があり、蓮田や塩場で働く人々に時を告げた。

写真3: 自性院

自性院.JPG

小岩にある真言宗善養寺の末、法仙法師により天正16年(1588年)開基。本堂手前右に田中家の小作番頭、秋本九兵衛家の墓所に、勝海舟筆の熊谷伊助慰霊歌碑がある。勝が、「よき友」熊谷伊助の死を悼んで建てたもの。勝の「日記」の中には「松屋伊助」と記されている。伊助は、睦奥国松沢(現岩手県一関市千厩町)の出身で、屋号の「松屋」はこれに由来する。慶応年間に横浜のアメリカ商館の番頭の職を得た伊助は、奉公した江戸の酒屋の縁で行徳出身の妻と結婚したと言われている。

「よき友の消へしと聞くぞ、我この方心いたむるひとつなりたり。」

写真4: 勝海舟筆句碑

自性院_勝海舟直筆の碑.JPG

そのまま江戸川方面へ進む。

暫く行くと稲荷神社がある。

写真5: 稲荷神社

稲荷神社.JPG

下新宿の鎮守、寛永12年(1635年)創建

更に進むと正源寺がある。

写真6: 正源寺

正源寺.JPG

寺の多い行徳で1、2を争う古刹で、文安元年(1444年)正源上人の開基。本堂に盲目弁天といわれる弁天さまの厨子が安置されているが、開基以来開けたことがなく、ご開帳すれば盲目になるといわれている。本尊は、行基菩薩の直作阿弥陀如来像である。

更に進むと、春日神社と胡録神社がある。

写真7: 胡録神社

河原胡録神社.JPG

寛永12年(1635年)創建

写真8: 春日神社

春日神社.JPG

大永7年(1527年)創建

近くに養福院がある。

写真9: 養福院

養福院.JPG

天文19年(1550年)建立

帰りは江戸川沿いのサイクリングロードを一気に戻る。
押切に、水神宮がある。

写真10: 水神宮

水神宮.JPG

先に進む。

サイクリングロードの終わり近くに、今井の渡し跡、旧今井橋跡がある。

写真11: 旧今井橋跡

旧今井橋跡.JPG

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_今井の津頭.jpg

更に進むと香取神社がある。

写真12: 香取神社

香取神社.JPG

当初、江戸川を渡ったところにある上今井村香取神社と上今井村が渡しの権益を持っていたが、正保元年(1644年)の久三郎とイネの事件後、権益が欠真間村に移った。それに伴い、上今井村香取神社をこの地に分社した。

以上で行徳は終わる。長かった。

以上
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2010年06月24日

31.行徳(関ヶ島〜成田道)

権現道に戻り進むと、教信寺がある。

写真1: 教信寺

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今井の浄光寺の末寺、信楽寺と教善寺が昭和27年に合併した寺である。それぞれの寺の一字をとり、教信寺となった。信楽寺は元亀元年(1570)の建立で古刹。

暫く進むと神明神社

写真2: 神明神社

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更に進むと本久寺がある。

写真3: 本久寺

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中山法華経寺の末寺。戦国時代の元亀3年(1572年)の創建。日能上人の開基。隣の寺、中山末寺の本応寺(天正6年(1578年)創建、日応上人開基)と併合し、本応山本久寺となった。

直ぐ隣に浅間神社

写真4: 浅間神社

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道を渡ると、真間山弘法寺の末、平正3年(1575年)の創建、日乘上人の開基となる正讃寺がある。

写真5: 正讃寺

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直ぐ隣に浄閑寺がある。

写真6: 浄閑寺

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芝増上寺の末寺で、寛永3年(1626年)に鎮誉上人が創建した寺である。当初は草庵に等しかったが、代官により、七堂を備える立派な寺院にしたとされる。当時は近くの内匠堀から直接船で入れる池が有名な寺だった。

山門入口脇には、「南無阿弥陀仏」と六面に刻み、その下にそれぞれ「地獄・飢餓・畜生・修羅・人道・天道」と六道を彫った、高さ2mほどの名号石「六面塔」が聳え、半肉彫りの「六地蔵」も並んでいる。これらは、明暦の大火の犠牲者供養のため建立されたもので、ほかに、慶安3年(1650年)の「萬霊塔」、慶安4年(1651年)の「延命地蔵」が立ち並んでいる。

暫く進むと円頓寺がある。

写真7: 円頓寺

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天正12年(1584年)、日蓮宗中山法華経寺歴世である日通上人の弟子・寂静院日圓上人により開創された寺である。明治14年(1881年)4月の行徳町の大火事により本堂・庫裡が焼失し、現在の山門のみ残った。現本堂は昭和55年の再建である。

本堂正面入口の上にある金文字の海近山の山号額は、幕末の三筆と言われた江戸末期の書家「市河米庵の筆」によるもの。

直ぐ先には妙覚寺がある。

写真8: 妙覚寺

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天正14年(1586年)に創建され、正覚山と号する日蓮宗中山法華経寺の末寺である。開基は心了院日通上人で、日蓮上人像を本尊して祀っている。

境内には、東日本では珍しいキリシタン信仰の遺物であり、房総で唯一基のキリシタン灯籠がある。戦国時代の大名古田織部の創案と言われ、別名を織部燈籠という。

写真9: キリシタン灯篭

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法泉寺を過ぎると現在の寺町通り、成田道の行徳ルートに出る。
徳願寺等成田道沿いにある史跡は成田道行徳ルートの回で紹介することにする。

今回は内匠堀跡の道を少し戻り、法善寺、豊受神社を巡った。

写真10: 法善寺

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慶長5年(1600年)宗玄和尚が開基した浄土真宗本願寺派の寺で、山号は仏性山という。この宗玄は曽て河本弥左衛門と言い、片桐且元に仕えていた大坂の人だった。行徳にきた弥左衛門は海岸や荒地を開拓し、塩田を造って塩焼の製法を里人に教えた。法善寺が行徳塩の発祥地として「塩場寺(しょばでら)」と呼ばれるのはこれに起因する。

行徳の塩業はすでに千年以上も前から行なわれていたという。
当時の行徳は江戸川の形成したデルタ地帯で、その海岸線は東西線に並行して走るバイパスの辺りであったと考えられる。
小田原北条氏が天文、永禄の二度にわたる国府台合戦で里見氏の勢力を撃退してからは、行徳で生産された塩を年貢として取り立てたといわれているが、北条氏滅亡後、徳川家康が関東を治めるようになると、家康は行徳の塩業を重視し、行徳を直轄領(天領)として治めた。

家康は、東金に幾たびか狩猟に出かけたが、その時船橋に御殿を造り、そこを中継地点として休憩、宿泊に当てた。
家康はそのおり塩業関係者を御殿に集め「塩は軍用第一の品、領内壱番の宝である」といって多額の奨励金を与えたという。
家康は行徳で生産された塩を直接江戸へ運ばせるため、隅田川から中川、そして江戸川へと運河をつくらせた。
行徳を治めた代官に吉田佐太郎がいた。彼は相之川の了善寺に陣屋を置き、製塩奨励のため「塩浜の開発には五カ年間の諸役を免除し、その後は生産高の十分の一を年貢として納めればよい」という触れを出している。
塩田開発についてはこのほか、慶長年間(1596〜1625年)には河本弥左衛門が関西からこの地に来て、干潟やアシの原野を開拓し、塩田をつくって塩焼きの製法を教えたところ、今日まで「塩焼」の地名が残ったという。
弥左衛門は出家して宗玄和尚となり慶長5年に建立したのが法善寺で、通称塩場寺(しょばでら)と呼ばれている。
また、寛永年間(1624〜1644年)田所長左衛門が近江国(滋賀県)信楽から行徳に来て製塩業に従事したといい、江戸神田の儀平衛は、寛保3年(1743)塩浜を開発して儀兵衛新田と称し、江戸横山町の加藤作兵衛が、安永4年(1775年)開発した塩田を加藤新田と称した。

江戸名所図会の行徳塩竃

江戸名所図会_行徳 塩竃之図.jpg

同じく行徳汐浜

江戸名所図会_行徳汐浜.jpg

行徳ちどり

江戸名所図会_行徳鵆.jpg

隣には豊受神社

写真11: 豊受神社

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境内には庚申塔

写真12: 庚申塔

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「行徳千軒寺百軒」行徳、先は長い。今日はここまで。
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2010年06月21日

30.行徳(押切〜関ヶ島)

押切に押切稲荷がある。

写真1: 押切稲荷

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押切の名は、昔、葛西領下鎌田村の村民がこの地に移住し、隣村の村民の妨害を “押し切って”移住したことに由来すると伝えられる。

法伝寺山門の道、これは内匠堀跡だが、ここに戻り進むと、光林寺がある。

写真2: 光林寺

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天文年間(1532〜55年)に尊了和尚が開基した寺。江戸川区江戸川にある浄興寺の末寺。
参道左側に不動堂があり、本尊は平安時代後期の真言宗新義派の開祖、興教大師の作といわれる不動像が祀られている。

更に進むと清岸寺がある。

写真3: 清岸寺

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浄土宗知恩院の末寺で慶長15年(1610)源心寺二世・行誉上人が建立。

更に進むと豊受神社がある。

写真4: 豊受神社

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伊勢宿の鎮守、由来ははっきりとしないものの、本殿創建は元禄7年(1694年)、鳥居は文政2年(1819年)の建造。
「伊勢宿(いせじゅく)」の地名の由来だが、伊勢参りの船が出た所、近くに伊勢外宮の豊受大神を祭った豊受神社がありまた宿場でもあった名残という。

更に進むと徳蔵寺がある。

写真5: 徳蔵寺

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天正3年(1575年)、小岩善養寺の末寺として、関ヶ島に開かれた真言宗の寺院。
開創当初の寺域は広く、七堂伽藍の殿堂等輪奐の美を極め、徳川幕府中期以降、徳川家の祈願寺として最も隆盛し、徳川家康公が御鷹狩りの際には徳蔵寺に立ち寄ったと伝えられている。寺町行徳1丁目から関ヶ島に延びる、通称「権現道」は、家康公御鷹狩りの際歩かれた道は徳蔵寺から始まっている。

古老の話では「物心つきし時分もなお御殿女中の如き方々が駕籠にて徳蔵寺に時折参拝に来りたるを見た」と伝えられ、現在も本堂内陣には、江戸幕府初代将軍家康公より七代将軍家継公までの尊牌が安置されているという。

ここからは内匠堀跡の道から権現道を行く。

写真6: 権現道

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暫く行くと、関ヶ島の鎮守、天正3年(1575年)創建の胡録神社がある。

写真7: 胡録神社

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暫く行くと交差点、それを左に見ると歴史を感じられる一軒家がある。浅子神輿店である。

写真8: 浅子神輿店

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行徳の町で神輿が作られたのは、江戸中期頃からで、日光東照宮を作った宮大工が行徳地区に移り住んで神輿を作ったのが始まりとも言われているが、堅牢な神輿が有名になり、神輿づくりが盛んになったという。そして、その神輿の商談に欠かせないものが、行徳の塩だった。造られた塩が新潟、長野などの山間部へと運ばれていく時、神輿製作の依頼も受けてきたようで、1〜2年後に完成した神輿がまた、塩と共に、行徳河岸から船で江戸川を下り、東京湾から隅田川を上り、千住まで行き、日光街道、中仙道を通ってソルトロード(塩の道)沿にある宿場や村に運ばれていったという。

行徳の神輿は、北は北海道、南は九州まで、日本全国の神社、町会等に数多く納入されているそうで、関東の神輿の大半が実は行徳製であるという。深川の富岡八幡の神輿も浅子神輿で作られたものの由。

本行徳の「浅子神輿店(浅子周慶)」、関ヶ島の「後藤神仏具店(後藤直光)」、本塩の「中台神輿製作所(中台祐信)」の3軒の神輿店があったが、室町末期応仁年間創業の浅子神輿店が16代浅子周慶氏の急死で、平成19年10月、500年の歴史に幕を閉じたことにより、現在では、唯一中台神輿製作所が製造から販売まで一貫して神輿を手掛けている。

江戸川方面に向かうと、常夜灯がある。

写真9: 常夜灯

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寛永9年(1632年)この航路の独占権を得たのが本行徳村だった。新河岸と呼ばれたこの船着場から江戸日本橋小網町までの間を往復した就航船を「行徳船」または「長渡船」と呼んだ。行徳船を利用した人たちには、松尾芭蕉、十返舎一九、小林一茶、渡辺崋山、大原幽学など、歴史上、文学史上に著名な人物も多く、特に文化・文政(1804〜30年)の頃からは、行徳を訪れる文人墨客や、当時ますます盛んになってきた成田山参詣の講中(信者の仲間)たちによって、船着場は賑わいを極めた。
この常夜燈は、文化9年(1812年)江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が、航路の安全を祈願して成田山新勝寺に奉納したもの。正面の裏面に「日本橋」と筆太く刻み、左側に「永代常夜燈」、右側に「文化九壬申年三月吉日建立」と刻み、台石には「西河岸町太田嘉兵衛、大黒屋太兵衛」ほか21名の氏名が刻み込まれている。

行徳街道に戻ると笹屋うどんがある。

写真10: 笹屋うどん

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日本橋小網町を出発した旅人は行徳河岸で上陸すると、先ずこの店のうどんで腹ごしらえするのが普通だったという。安政元年(1854年)築の建物がその侭残っているのが凄いと思うが、一見そんなに古いようには見えない。このうどん店は、明治になって廃業し、現在は個人の住宅になっている。

「音のない滝は笹屋の門にあり」、「行徳を下る小船に干うどん」、「出ますよと笹屋に船頭声をかけ」、「さあ船がでますとうどんやへ知らせ」

当時旅人が船を待つ間に笹屋でひと休みして、土産に干うどんを持ち帰ったそうだが、その情景が生き生きと感じられる。

江戸名所図会にも笹屋うどんの文字が

江戸名所図会_行徳船場.jpg

「行徳千軒寺百軒」行徳、先は長い。今日はここまで。
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