2010年12月12日

66. 国府台〜矢切(国府台天満宮〜)

前回の続き。

総寧寺からの道をそのまま進むと、直ぐに国府台天満宮がある。

写真1: 国府台天満宮

国府台天満宮.JPG

国府台天満宮は、文明11年(1479年)、当地の鎮守として、太田道灌が建立した。元々は法皇塚の墳頂部に祀られていたが、明治8年(1875年)、大学校設立の用地として周辺地域が買い上げられた時、農家と共に現在地に移された。

国府台天満宮と言えば辻切である。辻切りとは、人畜に危害を加える悪霊や悪疫が部落に侵入するのを防ぐため、部落の出入口にあたる四隅の辻を霊力によって遮断しようと、藁で2メートルほどの大蛇を4体作り、御神酒を飲ませ魂入れをして、町の四隅にある樹に頭を外に向けて結び付ける。辻切り行事は毎年1/17に、この天満宮境内で行われる。

そのまま旧道を進む。

台地から江戸川低地に出て暫く進むと、右手に本久寺、直ぐ隣に栗山日枝神社がある。

写真2: 本久寺

本久寺.JPG

本久寺は1690年(元禄3年)の創建

写真3: 栗山日枝神社

栗山日枝神社.JPG

本久寺、栗山天満宮に面した旧道を進むと突き当り、そこを右に行くと台地に向かって階段がある。そこを上ると、栗山浄水場がある。ここには、1937(昭和12)年に竣工し、土木学会選奨土木遺産の配水塔がある。

写真4: 栗山浄水場 配水塔

栗山浄水場 配水塔.JPG

戻り旧道を進む。江戸川低地より台地に上がる坂がある。ここが、国府台合戦の激戦地、大坂である。

写真5: 国府台合戦 古戦場跡 大坂

国府台合戦 古戦場跡 大坂.JPG

里見一族が館山から国府台まで勢力をのばして、さらに江戸領域を奪おうと力を広げていた。が、当時、既に、北条家が千葉を広く支配していた。松戸の高城氏、千葉氏、原氏も北条一族に服していた。江戸城にいたのは、北条の城代家老遠山丹波守。

矢切側に城を築いていたのは里見義弘、彼が8000騎を率いて陣を張ると、向かい側の帝釈天側には、江戸城代家老遠山丹波守直景と葛西城の勇将富永三郎右衛門が着陣していた。北条勢は2万人。1/7、両軍は江戸川を挟み対陣した。

大谷口に城のあった高城氏が、矢切の一角に陣を張り、江戸城代家老遠山側に味方したので、小田原から北条氏康、氏政親子が、総大将として、遠山・富永到着前に仕掛けて行った。その後、遠山・富永は自信をもって、江戸川を渡り、里見義弘8000騎に積極的に戦いを進めた。

遠山軍に押されて、里見軍は退却していき、ここ大坂の途中まで北条方が押し寄せてきて、里見軍が坂の上に立ったとき、一斉に討ちかかり、勇将富永三郎右衛門はここで獅子奮迅の戦いをしたが、落馬したところを里見軍が押し掛り、戦死した。それが文学碑のある下の坂道である。

城代家老遠山丹波守直景は、坂下坂川の手前にある「カイカバ曲がり目内野」という場所で、里見側の16歳の少年に打ち取られた。

その日の戦いは、北条側の敗北で、柴又へ引き上げた。その夜、里見側は戦勝祝いで酔いつぶれているところへ、北条軍は忍び寄り、挟みうちの夜襲をかけた。二度目の戦いである。油断していた里見軍はコテンパンに敗れて、市川から中山を経て、安房へ逃れた。その後、再起することはできなかった。

本土寺の過去帳には「コウノ台ニテ上下諸人 遠山殿(江戸城主)正月 其外千余人」と記されている。最終勝利者である北条側の死者は、手厚く葬られているようだ。房総の領有権も里見から北条へ移った戦いであった。

今日はここまで
posted by Yogi at 08:10| Comment(0) | 町・村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月04日

65. 国府台〜矢切(総寧寺)

前回の続き。

前回、江戸川サイクリングロードを行ったら北風向かい風で時間が掛ったので、今回は適当に細い道を北西に向かって進む。善養寺の少し手前で江戸川に出た。何気なく土手の下の道を走っていると・・・

写真1: 笹ケ崎の庚申塔河原道石造道標 正面

笹ケ崎の庚申塔河原道石造道標 正面.JPG

写真2: 笹ケ崎の庚申塔河原道石造道標 左側面

笹ケ崎の庚申塔河原道石造道標 左側面.JPG

これより市川への道と彫られている。

写真3: 笹ケ崎の庚申塔河原道石造道標 右側面

笹ケ崎の庚申塔河原道石造道標 右側面.JPG

これより河原への道と彫られている。

思わぬところで河原道道標を発見!

江戸川サイクリングロードに上がり、里見公園入口まで一気に進む。

市川橋で千葉県側に渡り、江戸川沿いを北上、すると・・・

写真4: スカイツリーと富士山

IMG_0110.JPG

今日は本当に天気が良く空気も澄んでいて、遠くまでクリアに見渡せた。先に進む。

羅漢の井のところの道を右に。必死に坂を上がり、里見公園入口のところを左へ。直ぐに総寧寺がある。

写真5: 総寧寺 石仏群

総寧寺 石仏群.JPG

まずは石仏群がお出迎え。

写真6: 総寧寺 銀杏

総寧寺 銀杏.JPG

もう大分落葉していたが、立派だった。銀杏を取りに来ている人3人。

写真7: 総寧寺 本堂

総寧寺 本堂.JPG

総寧寺は、今でこそ若干寂れている感があるが、非常に歴史も規模も格もある立派な寺である。

江戸名所図会_国府台 総寧寺.jpg

この江戸名所図会を見てもそれは明らかであろう。今の位置と比較しどこがどうなのかさっぱり分からないが。

永徳3年(1383年)、近江守護の佐々木氏頼が通幻寂霊を招聘して、同国坂田郡寺倉に總寧寺として建立した。享禄3年(1530年)、戦乱によって總寧寺が焼失。8世住持越翁宗超は、遠江国掛川に退避して同地に常安寺として再建した。この常安寺は永禄年間に戦乱によって焼失。住持らは常陸国に落ち延びた。天正3年(1575年)、常安寺は北条氏政によって関宿宇和田に移転。これは常安寺再建を図る11世住持義翁盛訓の嘆願と関宿城の簗田氏に対する氏政の牽制策の合致によるとされている。その後、総寧寺の旧称に復す。北条氏からは20貫、同氏滅亡後の新領主・徳川氏からは改めて20石が与えられた。元和3年(1617年)、徳川秀忠によって関宿内町(現在の千葉県野田市)に移転。寛文3年(1663年)、徳川家綱によって現在地(国府台城跡地)に移転。2年後に寺領として128石5斗を与えられ、曹洞宗関東僧録司となった。寺は嘉永3年頃(1850年)焼失し、文久2年(1862年)再興された。明治維新後、寺領が新政府により上知されている。(Wikiより)

今日はここまで。
posted by Yogi at 20:40| Comment(0) | 町・村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月26日

64. 国府台〜矢切(小岩・市川の渡し 市川関所跡〜羅漢の井)

もう近所は殆ど回ったのでどうしようかと思案していたが、国府台、矢切、松戸の、現在の松戸街道をきちんと回っていない(一度桜の季節に巡っているが、写真があまり残っていない。)ことを思い出し、そこをテーマに何回かに分けて散策していきたいと思う。

国府台に向かう。元佐倉道も飽きたので今回は江戸川サイクリングロードを行く。この季節、北風なので往きは向かい風。スピード優先でこの道を選んだのに、かえって時間が掛った。1時間費やす。

まずは、小岩・市川の渡しの市川関所跡に向かった。ここから右(南)の道を行けば佐倉道。左(北)に向かえば松戸道だ。だからここを起点にした。

写真1: 市川関所跡

市川関所跡.JPG

ここのご紹介は、『38. 佐倉道(市川関所跡〜弘法寺参道)http://yogimessage.seesaa.net/article/156655841.html』で済んでいるので写真のみとする。

松戸道を北へ。現在の松戸街道は京成本線のガードをくぐるが、旧道は、ガード手前、カフェ ローズの所を右に入っていく。そのまま道なりに。真間川も越えると再び現在の松戸街道に合流する。途中、杉田屋や菊野屋等、昔からの商家のような屋号の店もあったが、面影無し。

松戸街道に出ると上り道。ここから国府台の『台』に当たる地域に入っていく。直ぐの右手に国府神社がある。

写真2: 国府神社

国府神社 拝殿.JPG

寛治元年(1087年)創建、祭神は日本武尊、御神体はコウノトリの嘴。ここ、国府台は、日本武尊の伝説が残る土地だ。

景行天皇(在位: 71年8月24日 - 130年12月24日)の次男である日本武尊が東征の折、下総の賊を平定してこの台地に陣を張った。武蔵の国に向かおうとしたが、当時はこの土地はデルタ地帯で、船を使わず浅瀬を渡ることはできないかと思案していた所、一羽のコウノトリが現れ道案内をし、無事、武蔵の国に辿り着けた。日本武尊は功績を称え、そのコウノトリにこの土地を与えたという。それがここ鴻之台(国府台)の地名の起こりであるという伝説が残っている。

しかし実際は、その後、ここに下総国の国府が置かれたことが地名の起こりであることは明白で、正に伝説である。

先に進む。右手に千葉商科大学、左手に和洋女子大学、共に台地上にある。よって道は台地が削り取られたいわゆる切通しと思われる。千葉商科大学の終わりにスポーツセンターがある。ここが、下総国の国府があった所。

野球場と陸上競技場の間に、下総総社跡がある。

写真3: 下総総社跡

下総総社跡.JPG

大化改新(645年)により、それまでの国造による地方統治から、中央による直轄統治が進められ、地方統治の単位である国毎に国府を定め、中央から国司を派遣して、行政に当たらせた。この、天皇中心の律令国家は、壬申の乱(672年)を経て、天武・持統朝に強力に展開され、大宝元年(701年)の大宝律令の成立によって完成した。

国府に勤める役人は、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の4等官の下に組織され国司と呼ばれた。国司が勤める役所を国庁、国庁がある区画を国衙、国衙がある町を国府といった。国司は定期的に国内の主要な神社を巡拝する義務があったが、主要な神社を国衙の近くにまとめて祀り、総社と称した。

ここはその下総国総社跡である。

更に先に進む。東京医科歯科大学の終わりに里見公園入口に続く道がある。そこを入る。

写真4: 国府台城址

国府台城址.JPG

ここ里見公園は、国府台城址でもある。

扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が文明10年(1478年)の千葉氏内紛の際に千葉自胤を援けて下総国境根原(現在の千葉県柏市酒井根付近)での合戦を前に、国府台の地に仮陣を築いた。それが国府台城の始まりである。翌年、臼井城の千葉孝胤を攻めた際、道灌の弟太田資忠らが、この地に城を築いた。国府台城は後北条氏、千葉氏と里見氏、太田氏、上杉氏らの度重なる勢力争いの舞台となっており、争奪戦が繰り返された。しかし、豊臣秀吉による小田原征伐後、後北条氏に代わって江戸に入府した徳川家康によって廃城にされた。江戸を見下ろす場所にあったからとも言われている。

里見公園の入口に戻り入り口までの道をそのまま下ると、江戸川に出る手前に羅漢の井がある。

写真5: 羅漢の井

羅漢の井.JPG

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_総寧寺 羅漢の井.jpg

井戸の位置は殆ど変ってない様子だ。

国府台自体も江戸名所図会、広重の江戸名所百景に描かれている。

江戸名所図会 国府台 断崖の図

江戸名所図会_国府台 断崖の図.jpg

江戸名所百景 とね川風景

広重_国府台利根川風景.jpg

現在の写真では、

写真6: 国府台 断崖

国府台 断崖の図.JPG

江戸時代ほど江戸川はギリギリまで張り出していない。度重なる洪水で崖が削られ、水は減ったのだろう。

もう3時間近く経過していたので帰ることに。帰りはそのまま江戸川沿いを下る。すると、江戸川沿いに水神宮を発見。

手造りの説明板が良かったので掲載することにする。

写真7: 根本排水機場脇 水神宮

根本排水機場脇 水神宮.JPG

根本排水機場脇 水神宮 説明.JPG

今日はここまで
posted by Yogi at 08:33| Comment(0) | 町・村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。