2010年12月22日

69. 国府台〜矢切(角町〜旧坂川跡)

前回の続き。

角町の三叉路を小山交差点方面に進む旧道を行く。
暫く行き、R298も過ぎて、まだ暫く行くと、左手に宝蔵院がある。

写真1: 宝蔵院

宝蔵院.JPG

山号は光明院 宝蔵院、本尊は大日如来、開山は慶長4年(1609年)以前(真言寺と呼ばれた庵があった。)。

先に進む。R6、現在の水戸街道を潜ると、矢切高校の裏辺りで江戸川堤防道路にぶつかる。そのまま進む。矢切の渡しの少し手前に、旗本野間重成の宝篋印塔がある。

写真2: 旗本野間重成の宝篋印塔

旗本野間重成の宝篋印塔.JPG

矢切村には、野間様といわれている旗本がいた。寛永4年(1627年)に没した旗本野間重成である。天正18年(1590年)、小田原の役には家康に供奉して軍に従う。慶長19年(1614年)及20年(1615年)には、大坂夏冬の両陣に供奉した。元和元年大坂落城ののち、5月21日、小林田兵衛元長とおなじく伏見より二条城に出仕する途中、大仏の前において大野道犬を生捕り、二条城へ差し出したところ、22日酒井雅楽頭忠世、本多佐渡守正信より元長、重成連名の奉書をあたえられ、その賞として道犬が帯せしところの刀を重成に賜い、脇差は元長に賜う。元和2年(1616年)2月、功に依り下総国葛飾郡風早庄谷切村(今の下矢切・上矢切)のうち三百石を与えられる。是より子孫代々此の地を領し、以って維新に至った。十代金蔵氏は維新の際帰農して別に一家を創立したという。

更に進む。現在の江戸川坂川口に出る。そこに、産業考古学会は1995(平成7)年に「柳原水閘」を推薦産業遺産に認定され、更に松戸市指定有形文化財に指定された柳原水閘がある。1904(明治37)年に建設。

写真3: 柳原閘門

柳原閘門.JPG

柳原閘門の橋を渡り土手沿いの道を行くと旧坂川跡がある。

写真3: 旧坂川跡

旧坂川跡.JPG

天保7年(1836年)に掘削された。

そのまま進み、江戸川沿いを自宅に帰った。

これで国府台から矢切、松戸の入り口までの小さな旅が終わった。
国府台は真間弘法寺中心に一度回っているが、貝塚や古墳もあり、まだまだ見て回れていない。非常に興味深いところである。

以上
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2010年12月21日

68. 国府台〜矢切(浅間神社〜角町)

前回の続き。

松戸街道に戻り先に進む。
現在の水戸街道との交差点を過ぎそのまま旧道を行くと、浅間神社がある。

写真1: 浅間神社 鳥居

浅間神社 鳥居.JPG

長い階段を上る。途中、珍しい狛猿がいた。

写真2: 浅間神社 狛猿

浅間神社 狛猿.JPG

写真3: 浅間神社 拝殿

浅間神社 拝殿.JPG

浅間神社は、正保4年(1647年)6月1日創建。祭神は木花咲耶姫命と八幡太郎義家。この浅間神社がある山は極相林で形成されている。森林が形成されるまでには、その内部で、日照・気温・湿度などの自然環境に適応できない樹木の淘汰がすすみ、やがて生育に適した植物のみが層位(高木、亜高木、低木、草本)ごとに定着して、長期的に安定した森林を形成する。浅間神社の神域一帯はヤブニッケイがほぼ全域に高木として繁茂しており、タブノキ、ツバキ、ムクノキ等の原生林が残っている。原生林である。

更に進むと、弁財天宮がある。

写真4: 弁財天宮

弁財天宮.JPG

常磐線の陸橋を渡り流山街道に出る。進むと左手に増長院がある。

写真5: 増長院

増長院.JPG

直ぐに坂川。その橋はレンガでできている年代物の橋で眼鏡橋と呼ばれている。

写真6: 坂川 レンガ眼鏡橋

坂川 レンガ眼鏡橋.JPG

徳川家康が積極的に新田開発(1692年)を行ったことで、新松戸・旭町・栄町に新田ができた。
逆川(現坂川)はそれらの新田に度々洪水を起こし、3年に1度収穫があればいい程であった。新田で堰を高くすると上流が洪水になり、そのための争いも起こった。
1781年、上郷名主の渡辺庄左衛門(充房)が国府台下までの掘削を初めて幕府に請願した。
1801年に幕府が視察に訪れたが、下郷7ヶ村(古ヶ崎・根本・小山・上矢切・中矢切・下矢切・栗山)が反対し、請願は保留となった。
1812年に渡辺庄左衛門(充房)が死亡し、翌年、渡辺庄左衛門(寅)のときに一本橋から松戸宿までの新堀の掘削が開始された。しかし、洪水予防の効果はなく国府台下までの掘削の請願を繰り返したため下郷7ヶ村との軋轢は高まる一方であった。
1833年、渡辺庄左衛門(睦)が国府台下までの掘削の測量を開始したが、下郷7ヶ村の村民が反対のため浅間山に立てこもり古ヶ崎村から測量に来た百姓に死者まででた。
奉行所の調停により、1835年から国府台下までの掘削が開始された。洪水被害はやや収まった。
1910年、樋野口に蒸気機関の排水機場が完成し、1932年(昭和7年)より新坂川の掘削が開始され、新坂川を「用水」に坂川を「排水」として機能するようになった。

レンガ眼鏡橋は、1898年(明治31年)、江戸川からの逆流防止のために建てられた。レンガ造りの構造物としては、千葉県でもっとも古い橋。

橋を渡ってすぐ右手に圓慶寺がある。

写真7: 圓慶寺

圓慶寺.JPG

ここが角町だ。明治13年の地図を見ると、ここから先根本の交差点辺りまでが栄えていた所らしい。
松戸は次の機会にじっくり回るとして、今回は角町を江戸川沿いに戻ることにする。

が、その前に。増長院と常磐線を挟んで反対側に、戸定ヶ丘歴史公園がある。

写真8: 戸定ヶ丘歴史公園 正門

SANY0016.JPG

最後の将軍徳川慶喜の弟にして最後の水戸藩主、徳川昭武(あきたけ)が明治になって住んだ邸宅で、明治期の和風上流建築として貴重であるとして国の重要文化財に指定されている。

徳川昭武は、嘉永6年(1853年)、江戸駒込の水戸藩中屋敷で誕生する。その半年後から水戸にて養育されるが、幕末の動乱のため、文久3年(1863年)、10歳の時に再度江戸入り。同年、京都で病に伏した兄昭訓の看護の名目により上京する。当初は長者町の藩邸に滞在するが、禁門の変の後は東大谷長楽寺、本圀寺に滞在する。滞京中の佐幕活動は多忙を極め、禁門の変や天狗党の乱に際しては一軍の将として出陣するなど、幼年ながらも幕末の動乱に参加している。

従五位下侍従兼民部大輔に叙任。第14代将軍徳川家茂の死去に伴い、諱を昭武と改名する。14歳の時、慶応2年(1867年)、清水徳川家を相続する。同時にパリ万国博覧会に将軍慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられ、使節団を率いて渡仏する。この使節団にはあの渋沢栄一もいた。

ナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問する。万博終了後に引き続き、幕府代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴訪。その間に、オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、イギリス女王ヴィクトリアに謁見した。

非常に良い公園でした。お薦めです。

今日はここまで
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2010年12月19日

67. 国府台〜矢切(大坂〜神明神社)

前回の続き。

大坂より坂を上る入り口右側に旧道がある。そこも上り坂。そこを上る。上り切ったところ直ぐ左手に妙法寺がある。

写真1: 妙法寺

妙法寺.JPG

妙法寺の脇の細い道を入ると西蓮寺本堂に行くが、民家の庭のようで入るのを躊躇う。恐る恐る覗くようにしているとおばあさんから声を掛けられ、ここではなく大阪の方から入るよう言われた。道を戻り、大坂入口の階段を上がると、寺の裏手に出る。公園のようになっており、古戦場跡の説明板や、野菊の墓の伊東左千夫の碑があった。

写真2: 野菊の墓 碑

野菊の墓 碑.JPG

西蓮寺は永禄7年(1564年)の国府台合戦の際に兵火で焼けてしまったが、その時、本尊阿弥陀如来像だけは庭の榎の洞穴にどうにか隠しすことができたという。そのまま年数が経ち、御本尊は取り出せなくなっていた。

元和2年(1616年)、徳川家康の家臣外山忠兵衛正吉は大坂の夏の陣の功績によって、下総小金領下矢切の地で213石を領することになった。寛永17年(1640年)外山忠兵衛正吉の遺跡を継いだ外山忠兵衛正春は、慶安2年(1649年)、家来の高安長右衛門を従えて領地内を見て回った。村人から霊験あらたかな西蓮寺のご本尊の阿弥陀如来の話を聴いた外山忠兵衛正春は、榎洞の場所を村人とともに探し出した。子宝に恵まれなかった外山忠兵衛正春は喜び、お堂を造り尊像を安置し、丹誠をこらして信心したという。不思議なことに、阿弥陀如来のご霊験あって、忠兵衛正春の妻は程なく懐胎なされ、慶安3年、男子をめでたく出産なされた。生まれた子の名は当之助。その後、慶安3年(1650年)年、遍照房が草堂を再興し、寺屋敷を付置いたという。当之助は外山藤左衛門正重と名を改め、その後小作正重と名乗った。延宝8年(1680年)、大風雨のためにお堂が破損したので、小作はお堂を建立、天和元年(1681年)には阿弥陀如来尊像並びに法具、田地を如来のために献上した。

大坂を上る。突き当りの道が松戸道の旧道だ。その交差点に矢喰庚申塚がある。

写真3: 矢喰庚申塚

矢喰庚申塚.JPG

以下は、庚申塚保存会の説明である。

温暖で平坦な下総原野が川と海に落ち込むこの矢切台地に人が住んだのは約5千年前、朝に魚や貝を採り夕べに鳥や獣を追う平和な生活も下総の国の国府が国府台に置かれた千3百年ほど前から武士たちの政争の場となり、なかでも北条市や里見氏の国府台合戦はこの矢切が主戦場となり戦没者は一万余を数えました。

家は焼かれ田畑は荒らされ、女、子供、年寄りは逃げまどい、男どもは人足に狩り出され傷つき、一家は離散。この塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ、親から子、子から孫に言い伝えられ、江戸時代中期に、二度と戦乱のないやすらぎと健康を願い庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻み、朝夕お祈りをしてきました。このたび先人たちの苦難と生きる力強さを知り、四百年前の遺蹟と心を次の世代に伝えるため、平和としあわせを祈りこの塚をつくります。 昭和六一年十月吉日 庚申塚保存会

大坂を挟み、矢喰庚申塚と向かいにあるのが、矢切神社である。

写真4: 矢切神社 拝殿

矢切神社 拝殿.JPG

写真5: 矢切神社 鳥居 銀杏

矢切神社 鳥居 銀杏.JPG

宝永元年(1704年)6月29日の長雨により、江戸川が大洪水を起こし、水高が地面より8尺余り(約2m50cm)となった。当時の矢切の民家は江戸川沿岸にあったため、多数の死者を出し、産業も甚大な被害を受けた。災害から逃れるように村民が台地上に移住し、鎮守として京都東山より稲荷を勧請して祀ったのが矢切神社である。かつては稲荷神社と呼ばれていた。 なお、矢切村(上矢切、中矢切、下矢切)全体の総鎮守として香取神社があったが、この洪水を契機に上矢切に神明神社、下矢切に矢切神社が設けられ、香取神社は中矢切の鎮守となった。

香取、神明も後で訪れる。

旧道を進む。途中、左手に浄安寺がある。

写真6: 浄安時

浄安時.JPG

更に進むと右手に中矢切鎮守、香取神社がある。

写真7: 香取神社

中矢切鎮守 香取神社.JPG

R298を陸橋で越える。旧道を進むと直ぐに松戸街道に当たる。松戸街道を行く。松戸市健康増進センターの小道を入り道沿いに進むと上矢切鎮守 神明神社がある。

写真8: 神明神社 鳥居

上矢切鎮守 神明神社 鳥居.JPG

鳥居前に石碑群が集められていた。

写真9: 神明神社 鳥居前 石碑群

上矢切鎮守 神明神社 鳥居前 石碑群.JPG

写真10: 神明神社 拝殿

上矢切鎮守 神明神社 拝殿.JPG

今日はここまで
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