2011年09月16日

江戸川区(葛飾)の歴史 B-1古墳時代

古墳時代とは、3世紀後半から8世紀初頭までの時代をいう。ちょうど、奈良時代に差し掛かる頃までだ。

葛飾には、古墳時代の遺跡が、葛飾区に12ある。(江戸川区には無い。)

・遺跡番号2 金町浄水場内遺跡
 低地 包蔵地
 [古]

・遺跡番号5 古録天遺跡
 低地微高地 集落 [奈][平]住居 土坑 溝 [中]溝 [近]土坑
 [古][奈][平][中][近]

・遺跡番号6 柴又八幡神社古墳
 低地微高地 古墳(円墳) [古]横穴式石室 周溝 区史−柴又八幡神社の古墳石槨
 [古]

・遺跡番号7 新宿町遺跡
 低地微高地 集落 150×80m [古]住居
 [古]

・遺跡番号11 立石様
 低地微高地 古墳 [古]石室?
 [古]

・遺跡番号12 南蔵院裏古墳
 低地微高地 古墳
 [古]

・遺跡番号13 熊野神社古墳
 低地微高地 古墳(円墳) [古]周溝
 [古]

・遺跡番号20 柴又八幡神社遺跡
 低地微高地 集落 [奈][平]住居 井戸 [近]溝
 [古][奈][平][中][近]

・遺跡番号22 本郷遺跡
 低地微高地 集落 [古]住居 竪穴状遺構 土坑 小鍛冶工房 [奈][平]ピット 土坑 井戸
 [近]ピット 井戸 溝
 [古][奈][平][中][近]

・遺跡番号24 鬼塚遺跡
 低地微高地 集落 [古]掘立柱建物 土坑 井戸 溝 [奈][平]掘立柱建物 溝 井戸
 [中]ピット 溝状遺構 [近]井戸 水田
 [古][奈][平][中][近]

・遺跡番号28 立石遺跡
 低地微高地 集落 [中]掘立柱建物 井戸 土坑 溝 杭列
 [古][奈][平][中]

・遺跡番号29
 低地 包蔵地
 [古]

地図を見てみよう。


より大きな地図で 葛飾 古墳時代 遺跡地図 を表示

江戸川右岸の微高地、柴又地区と、中川が中川放水路と分流後の旧中川両岸、立石・奥戸地区に集中している。

柴又は元、「嶋俣」で、「嶋」は文字通り島を表しており、微高地を表す。立石・奥戸は今となっては地盤沈下による海抜マイナス地区だが、やはり、川沿い微高地が故であろう。

この内、現代でも痕跡がある、あるいは、ありそうなのは、 寺社と鬼塚だけだ。

それでは早速、現場視察である。

まずは、立石地区の熊野神社古墳から。

[熊野神社 拝殿]

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ご覧の通り、今はただの神社で、墳丘のような地面の盛り上がりもなく、痕跡が見当たらない。唯一、らしきものは、境内社の天神様である。 直径約2mの円状の土の盛り上がりに社が立っている。

[熊野神社 境内社 天神様]

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[熊野神社 出土品]

IMG_0748.JPG

昔はどうだったか。江戸時代の様子を江戸名所図会で見てみよう。

[江戸名所図会 立石 南蔵院 熊野祠]

江戸名所図会 立石 南蔵院 熊野祠.gif

手前が南蔵院、奥が熊野神社である。熊野神社は、田んぼの中の少し高い土地に建っているように見えなくも無い。 墳丘の上に建てられたのであろうか。

次は、すぐ隣の南蔵院裏古墳である。

[南蔵院裏古墳]

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IMG_0757.JPG

画面左に茶色のマンションが見えるが、そのマンションの建設時に、多数の出土品が出たそうだ。写真はその内の一つ。

次は、すぐ隣の立石様。

[立石様]

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今はすっかり埋まってしまっているが、江戸時代は、もう少し、露出していたようだ。

[江戸名所図会 立石村 立石]

江戸名所図会 立石村 立石.jpg

「立石村五法山南蔵院といへる真言宗の寺境にあり。地上へ顕れたる所わずかに壱尺ばかりなり。土人相伝へて、石根地中に入る事その際りをしらずといへり、石質弱にしてその色世間に称する鞍馬石に似たり。この石寒気を帯ぶればこゝかしこ欠け損ず。されども春暖の気を得る時は又元の如しと云へり。古はこの石によりて近郷四五箇村の名とせしが、分郷となりしより後はこの村のみいを立石とよべりとぞ。 」

と、当時、1700年代は、30cm程度の高さがあった模様。

新編武蔵風土記稿 葛飾郡之四でも、

「稲荷社 立石稲荷と号す。これも神体石にて直径二尺許、高さ一尺程。下は土中に埋り其形伏牛に似たり。此石冬はかけ損じ、夏に至れば元の如くなれり。かく寒にかけ、暑に癒ると云は活蘇石なるべし」

と、やはり30cm程の高さだったらしい。

江戸名所図会では、立石の地名の所縁だとも。が、新編武蔵風土記稿 葛飾郡之四では、

「立石村は村内熊野社の神体立石なるより起れる村名なりしと土人伝へり。且古は地域も広くして今の川端、中原、梅田、四ツ木、篠原、原濱、須野等の村々当村の内なりしよし是も土人の口碑に残れり」 「熊野社 村の鎮守なり。神体は石剣にして長二尺余。村名もこれより起れり。相伝ふ、当社は安倍晴明が勧請なり、社地は五行にかたどりて五角なりしと。今も其形残れり。南蔵院持」

と、あり、どちらが本当なのか。風土記の方が新しいが。

さて、この立石様。まだある。この、立石古墳群の付近には、古代東海道が東西に走っているのだ。「立石」という地名は、西日本などでは、街道沿いのマイルストーンとして、地名となっているところもあり、ここ、葛飾区立石も、そうだろうとのことだ。

[古代東海道]


より大きな地図で 立石古墳群と古代東海道 を表示

立石のこの石。古墳の石棺の一部ともマイルストーンとも言われているが、そもそも、ここ、東京低地には石が無い。川や海に運ばれた土砂か火山灰だからである。ではこの石は何か。立石の石は、その性質と貝の跡から、鋸山から採取された房州石と言われている。古墳時代、房総から、この重い石を運んだのである。その技術の高さも凄いが、律令制が浸透する前のこの時代に、現場同士のボテナムアップ型交流があったというのが興味深い。

次は、鬼塚遺跡。

[鬼塚遺跡]

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ようやく、古墳らしい姿が見られたが、残念ながらこの塚は室町時代に造られたものであり、古墳ではない。

しかし、ここ立石・奥戸周辺は非常に充実している。何かある。。。

柴又周辺は次回

以上
posted by Yogi at 19:01| 東京 ☀| Comment(0) | 町・村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月11日

江戸川区(葛飾)の歴史A弥生時代

弥生時代は、BC300年〜紀元後300年頃のことを言う。約600年間と、縄文時代の11,700年間に比べると随分短い。
縄文海進のピークは約6,000年前。弥生の頃には、徐々に海も引き、川や海が運んだ土砂により微高地が形成され、下総台地や本郷台地から人々も移動してきて、葛飾でも人々の営みが再開した。

さて、葛飾区と江戸川区には、合計6つの弥生時代遺跡がある。

[葛飾区]

・遺跡番号1: 水元飯塚
 低地微高地 包蔵地
 [弥][奈][平]

・遺跡番号4: 古録天東
 低地微高地 集落 77,200u [古]住居 [奈][平]住居 生産遺構
 [弥][古][奈][平][中]

・遺跡番号8: 御殿山・葛西城址
 低地微高地 集落・城館 [古]住居 ピット 土坑 溝
 [中]掘立柱建物 土坑 ピット 井戸 溝 堀 [近]水田 都史−葛西城跡
 [弥][古][奈][平][中][近]

[江戸川区]

・遺跡番号1: 上小岩
 集落跡
 弥生〜近世

・遺跡番号9: 勢増山
 包蔵地
 弥生?

・遺跡番号10: 椿町
 包蔵地
 弥生?

地図を見てみよう。

[葛飾 弥生時代 遺跡地図]


より大きな地図で 葛飾 弥生時代 遺跡地図 を表示

全体に、中川放水路より東側に固まっているのと、川沿いに立地しているのが特徴だ。
川沿い立地は、川が運ぶ土砂により微高地が形成されることが原因であろう。海は引いたとはいえ、地盤は軟弱だろうし、洪水を考えれば、少しでも高い方が良い。
中川放水路より東側の理由は何か。地形図を見ると分かる。

[葛飾 弥生時代遺跡 地形図]

地形図_弥生時代遺跡.JPG

中川放水路より東側の方が、若干ではあるが、海抜が高い。東京低地は、地盤沈下の影響が大きいので何とも言い難いが、下総台地に近い東側の方が、その張り出しの影響を受け、海抜が高いのかもしれない。

それでは現場視察に出掛けよう。何かしら痕跡があるのは、江戸川区の上小岩遺跡だけである。

[江戸川区 上小岩遺跡]

IMG_0724.JPG

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現場に何か残っているわけではないが、モニュメントや区の解説板などがある。この遺跡は、1952年に、中学生が、自宅裏の用水から土器片を見付け、担任の先生に報告したことがキッカケとなり発掘された。先生が、面倒がらずに、生徒のピュアな訴えに、真摯に対応したのだろう。

又、郷土資料室には、 上小岩遺跡と椿町遺跡の出土品が展示されていた。

[上小岩遺跡 出土品]

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古墳時代前期のものかもしれないが、載せておく。最後の土器は、S型口縁台付カメといい、東海地方にしか見られないもので、ということは、当時から、地域間の交流があったということだ。ロマンである。

[椿町遺跡 出土品]

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紋様が確認できるが、縄で付けた跡ではない。木の棒のようなもので付けられた紋様のようだ。弥生時代の特徴。

再開した葛飾での人々の営み。狩猟と漁業中心の縄文時代から、大陸からの渡来人がもたらした技術や道具により、農耕中心の弥生時代に移行し、人々は定住し、コミュニティも大きくなった。東海地方との交流もあったようで、なんだか嬉しい。

次回は、古墳時代。

以上
posted by Yogi at 23:45| 東京 ☀| Comment(0) | 町・村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月22日

江戸川区(葛飾)の歴史@縄文時代

名所江戸百景シリーズも、桜の時期も過ぎ、紅葉の時期まで間が開く。そこで、新たなテーマを検討してみた。道、川(跡)、町・村と、一通り回ったのでネタも尽きてきた。色々と検討した結果、原点に返り、我が街・江戸川区の歴史を遡ってみたいと思う。

新シリーズ、『江戸川区(葛飾)の歴史』のスタートである。

尚、御存知の方も多いかと思うが、江戸川区は、その昔、『下総国葛飾郡』であった。だから、(葛飾)と、している。

さて、縄文時代、葛飾は海だった。縄文海進と呼ばれる海水面の上昇、概ね3〜5m、高いところでは10数mも、現在の海水面より高かったという。それは、貝塚が教えてくれる。

[Wiki、『縄文時代の遺跡一覧』より、貝塚のみピックアップした地図]


より大きな地図で 縄文貝塚地図 を表示

なんと!、最も奥は、渡良瀬遊水地の辺りまで、海だったのである。

何故、渡良瀬遊水池にまで海が入り込んだのか?

理由は簡単である。海抜が低いからだ。地形図を見てみよう。

[東京低地地形図 全体図]

地形図_東京低地全体図.JPG

[渡良瀬遊水池付近]

地形図_渡良瀬遊水地付近.JPG

[江戸川区付近]

地形図_江戸川区付近.JPG

[市川市 貝塚付近]

地形図_市川市貝塚.JPG

最も低いのは、我が街、江戸川区、葛飾区。渡良瀬遊水池の辺りも、海抜10数mだ。又、貝塚も、幾分海抜のある台地上に多くプロットされている。

と、いうことは、葛飾の歴史は弥生時代から・・・?!と、決めつけるのは早計だ。縄文海進は、ピークが約6,000年前。縄文時代は約12,000年前〜BC3世紀だから、12,000年前〜6,000年前は、陸地だったのだ。その証拠に、葛飾区と江戸川区には、ちょうど一つずつ、縄文時代の遺跡が登録されている。

・葛飾区

 遺跡番号: 15
 遺跡名: 柴又河川敷
 所在地: 柴又五・六丁目
 遺跡の概要: 低地微高地 包蔵地 [不]溝 土坑
 時代: [縄][弥][古][奈][平][中][近]

・江戸川区

 遺跡番号: 2
 遺跡名: (無し)
 所在地: 南小岩五丁目新中川放水路敷
 遺跡の概要: 低地 包蔵地
 時代: [縄早]

それでは早速、自転車で現場視察である・・・

が、保存されている、せめて、何か痕跡が分かるような遺跡は殆ど無いのが現実だ。今回で言えば、[江戸川区 遺跡番号2]は、何も残っていない。

と、いうことで、葛飾区の柴又河川敷遺跡に現場視察である。

[柴又河川敷遺跡]

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ここも、何も無い…のではないのだ。ここは、縄文時代の痕跡が、今尚、肉眼でハッキリと確認出来る非常に貴重な場所なのだ。

[GoogleMapsによる空撮写真]


大きな地図で見る

写真の川は江戸川だが、透き通って岩盤が見えると思う。何と! これは、縄文海進により削られ残った下総台地の岩盤なのである。

この岩盤は、大潮の干潮と、江戸川水門の開門が重なった時に確認できる。現場視察時は、大潮の干潮だったが、数日続いた大雨の影響で、水量が多く、岩盤の露出は無かった。が、増水により流量と流速が早くなった江戸川の流れは、この岩盤に当たり、ここだけ、流れが逆流し、上流からの流れとぶつかって、渦を巻いていた。

縄文早期、まだ海進する前、約6,000年以上前に、葛飾には、縄文人が住んでいた。その後、縄文海進により、数千年、歴史が途切れる。次、葛飾で人々の営みが再開されるのは弥生時代だ。

次回は、弥生時代。

以上
posted by Yogi at 23:00| 東京 ☁| Comment(2) | 町・村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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