2010年07月11日

35.佐倉道 行徳ルート(妙典〜原木)

前回の続き。

佐倉道を進むと県道6号線に出る。佐倉道は、県道6号線を渡ってすぐ左折だ。曲がり角に古そうな家があるので直ぐに分かる。

暫く行くと左手に春日神社がある。

写真1:春日神社

妙典春日神社.JPG

春日神社の創建は、安政3年(1856年)の大津波で資料が滅失し、明らかではないものの、境内の灯籠に寛文10年(1671年)の銘があることから推測すると、それ以前と考えられている。

直ぐ隣に清寿寺

写真2:清寿寺

清寿寺.JPG

やはり、安政3年(1856年)大津波ですべて流失してしまい、記録が残っていない。元禄8年(1695年)に日蓮宗に改宗した。

更に進むと左手に参道がある。参道を進むと右手に上妙典の鎮守、八幡神社がある。

写真3:八幡神社

妙典八幡神社.JPG

拝殿の向こうには、茅葺の山門が立派な妙好寺

写真4:妙好寺

妙好寺2.JPG

戦国時代永禄8年(1565年)8月、千葉氏一族の篠田雅楽助(うたのすけ)清久が創建し、中山法華経寺の日宣上人を迎えて開山した。篠田雅楽助清久は、時の地頭で、永禄7年(1564年)の国府台合戦で、千葉氏と共に小田原北条氏に味方をした恩賞としてこの地を与えられた。妙典の地名は、法華経の経典「南無妙法蓮華経」の如く妙なる教典であることから付いた。つまり、この妙好寺が由来である。因みに、船橋市法典は、もとはこの妙典の人々が開発したところから名付けられたといわれる。江戸時代檜山騒動の義士相馬大作が、旅絵師に姿を変え、当寺に潜居したと伝えられている。

そのまま進むと江戸川放水路に出る。水道橋が掛っているが、ちょうどこの橋が佐倉道のルートと重なる。江戸川放水路沿いに北上し、行徳橋を渡って、県道179号線に出る。右折して、田尻に向かう。

田尻に入ると左手に日枝神社と浄経寺がある。

写真5:日枝神社

田尻日枝神社.JPG

写真6:浄経寺

浄経寺.JPG

インターネットで調べたが、何も出てこない。

佐倉道に戻り更に進む。二股を右に折れると高谷に入る。東西線の高架を潜る手前の二股を右に入る。すると、大鷲神社、常明寺、了極寺、安養寺が固まって、ある。

写真7:大鷲神社

大鷲神社.JPG

高谷の鎮守の趣だが、インターネットで調べるも何も出ず。

写真8:常明寺

常明寺.JPG

大鷲神社同様、何も出ず。

写真9:了極寺

了極寺.JPG

船橋の浄土宗・浄勝寺の末寺で、元禄4年(1691年)開基。行徳十一番札所。京都伏見の阿波介が法然上人(圓空大師)の教えにより念仏者になり、衆生済度のための旅立ちをお願いし、上人は阿波介の願いを聞き、居合わせた弟子に上人の姿を写させ、不似の箇所は自ら訂正し阿波介に渡した。上人の真影を持って多くの人々を教化しつつ、下総行徳領浮島村(現在の高谷)の百姓磯貝新兵衛の家に止宿し、村の人々を集め法話をした。彼の話に感銘した新兵衛は、阿波介のお伴をして旅立った。約半年後、中導寺金堂で阿波介は端座合掌して亡くなった。新兵衛は、阿波介の志を継いで、陸奥出羽を巡拝し故郷の浮島村に帰り、水鏡御影を本尊として草庵を結び元禄年中に再興して現在に至っている。貞享3年(1686年)祐天大僧正により、法然上人の550回忌の法要が当寺で行われた。そのとき書かれた大僧正の塔婆を、村内に悪疫が流行した際に、塔婆を削って呑むと、悪疫が治ると評判になり、夜中に削り取る者がつぎつぎと現れたために、塔婆を本堂に安置した。現存する10月25日のお十夜に法然上人水鏡の御影と塔婆が公開される。

写真10:安養寺

安養寺.JPG

小林一茶が訪れた寺、天文3年(1534年)建立。本堂回廊に、弘法大師誕生1200年を記念して、住職が四国八十八ヶ所を巡拝し勧請した各寺の石が埋め込まれている。

常明寺と了極寺の間の道、恐らく旧道であるこの道を進むことにする。暫く進むと佐倉道に出る。ここは原木だ。右折して暫く行くと、日枝神社がある。

写真11:日枝神社

原木日枝神社.JPG

安永2年(1773年)建立

更に進むと立派な山門、妙行寺がある。天文7年(1538年)、円増院日進上人が開創。墓地内には、寛政3年(1791年)の大津波で溺死した村人の供養塔がある。ここら辺りは津波が多かったようだ。寛政3年(1791年)、安政3年(1856年)とあったことになる。

写真12:妙行寺 山門全景

妙行寺_山門.JPG

それにしても彫刻が立派である。

写真13:妙行寺 山門 彫刻

妙行寺_山門 (2).JPG

写真14:妙行寺 本堂

妙行寺_本堂.JPG

写真15:妙行寺 本堂 彫刻

妙行寺_本堂 (5).JPG

続きは次回
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34.佐倉道 行徳ルート(本行徳)

江戸から佐倉に至る道は幾つかルートがあった。

日本橋から水戸街道、新宿で佐倉道に入り、小岩へ抜けるルート。
竪川の北岸を行き、逆井の渡しで中川を渡り、元佐倉道で小岩に抜けるルート。

そして3つ目が、この行徳ルートだ。
小名木川、新川、江戸川と船で下り、行徳で降りて、行徳街道から成田道に入り、妙典、高谷、原木、二俣、海神へと抜けるルートだ。

佐倉道、元佐倉道は小岩市川の関所を通らなければならない。が、行徳ルートは、関所が無い。又、船旅という風情、非日常性が加わり、江戸後期は成田山への参拝客で大いに賑わった。

行徳街道の行徳神明神社の少し手前、郵便局があるT字路が、佐倉道の入り口だ。標識では、寺町通とある。権現道の出口を過ぎるとすぐ左手に、妙頂寺がある。

写真1:妙頂寺

妙頂寺.JPG

「妙」とつく寺は日蓮宗が多い。これもそう。日蓮上人生存中の、弘安元年(1278年)日妙上人の創建。永禄4年(1561年)日忍上人によって、現在の地に移された。境内には200年以上の古木、百日紅(さるすべり)があり、毎年夏には紅色の花を咲かせる。また当時22世賢地院日彦上人(天保9年3月26日寂)の筆子塚があり、天保年間には当寺が寺小屋であったことが偲ばれる。寛保2年(1742年)製作の釈迦涅槃図があり、畳十畳の大きな傑作である。8月20日の施餓鬼、11月13日のお会式に限って公開されるとのこと。

直ぐ隣に妙応寺がある。

写真2:妙応寺

妙応寺.JPG

天正元年(1573年年)に、日忠上人によって開山された。釈迦如来を本尊とする法華経寺の末寺。山門の前後には七福神像、子育て、水子供養のお地蔵もある。永禄2年(1559年)日忍上人の創建との説もある。

佐倉道を挟んで向かいには、塩場山 長松禅寺がある。

写真3:長松禅寺

長松禅寺2.JPG

松戸馬橋、万満寺の末寺で、天文23年(1554年)溟山和尚の開基。境内に六地蔵を彫った石柱がある。長松禅寺の山門が鬼門にあたるため厄除けに建てられたものだそうだ。山号は、この辺りに塩田があった故。

佐倉道に戻り信号の通りを渡るがこの通りが内匠堀。近い内に、源流までのサイクリングに行ってみたい。

交差点には徳願寺がある。鴻巣の勝願寺の末寺で、もと普光院と呼ばれる草庵だったが、慶長15年(1610年)総連社円誉不残上人が新しく堂宇を建て寺院とした。寺名も、徳川家康の帰依により徳川の徳と、勝願寺の願をとって、徳願寺と名づけた。

本尊は、北条政子が運慶に作らせたという3尺2寸の阿弥陀如来像。はじめ鎌倉にあったものを、江戸時代に家康が二代将軍秀忠婦人の崇源院のために、江戸城内三ノ丸に遷したが、婦人の逝去後、当山二世忠残上人が請けて、当寺に本尊として安置した。

三代将軍家光からは、本尊供養料として、慶安元年(1648年)に十石の御朱印を賜った。

門前に永代橋溺死供養塔がある。この塔は文化4年(1807年)8月15日、深川八幡の祭礼で、永代橋が崩れ亡くなった人を供養するために日本橋成田山講中の人たちが建てたもの。

参道の正面に明治の初め葛飾八幡宮から移された仁王像を安置している、安永4年(1775年)建立の仁王門、その右手には、同じく安永4年(1775年)建立の袴腰の美しい鐘楼がある。広い境内には本堂のほか経堂や、聖観音菩薩像を安置した身代観音堂などがある。山門手前のお地蔵様は、宮本武蔵の達磨絵や書と共に、剣豪武蔵の伝承を徳願寺に伝えている。

本堂は、安政3年(1856年)に火災にあい、 その後大正5年徳譽信契上人により再建された。面積は64坪、畳数95畳、柱は阿弥陀仏の四十八の誓願になぞられて48本ある。本堂の大屋根瓦には七曜の紋と葵紋がつけられ当寺と千葉氏や徳川氏との関わりを示している。現在の本堂は、平成3年に改修され、本堂の屋根瓦は銅板の本葺に葺きかえられた。この改修と共に書院、渡り廊下も新しくなっている。

写真4:徳願寺 参道

徳願寺_参道.JPG

写真5:徳願寺 仁王門

徳願寺_山門2.JPG

山門には、江戸時代作の大黒天と毘沙門天がある。

写真6:大黒天

徳願寺_大黒天.JPG

写真7:毘沙門天

徳願寺_毘沙門天.JPG

山門を潜ると、右手に鐘楼がある。

写真8:徳願寺 鐘楼

徳願寺_鐘楼.JPG

鐘楼の奥に経堂があり、中には、運慶作の閻魔大王がある。

写真9:徳願寺 閻魔大王

徳願寺_運慶作閻魔大王.JPG

そして本堂

写真10:徳願寺 本堂

徳願寺_本堂.JPG

本堂階段の手前の甕に綺麗な蓮の花。綺麗に撮れたので載せておこう。

写真11:徳願寺 蓮

徳願寺_蓮.JPG

江戸名所図会の徳願寺

江戸名所図会_行徳 徳願寺.jpg

手前の道が成田道、奥に縦に走っている道が行徳街道、行徳街道の向こうには、左から、自性院、大徳寺のキャプションが見える。キャプションははっきりしないが、その手前に鳥居が見える。行徳神明神社だ。

徳願寺の向かいには、常蓮寺がある。

写真12:常蓮寺

常運寺.JPG

小田原北条氏の家臣野地氏によって元和2年(1616)に建立。

もう写真が10枚を超えたので、続きは次回に。
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2010年05月21日

21.古代東海道

律令制の時代に導入された広域地方行政区画、それが五畿七道(後に北海道が追加され八道に)である。

畿内、東海道(中路)、東山道(中路)、北陸道(小路)、山陰道(小路)、山陽道(大路)、南海道(小路)、西海道(小路)、北海道

と、有り、東海道は、現在の三重県から茨城県にかけての太平洋側の地域を指す。

東海道.svg.png

七道の各国の国府は、それぞれ同じ名の幹線官道(駅路)で結ばれていた。七道は大路、中路、小路に分けられ、駅路には原則として30里(約16キロ)ごとに駅(駅家)を置き、駅ごとに駅馬が常備された。駅周辺に駅長や駅丁を出す駅戸を置き、駅馬の育養にあたらせた。駅家には往来する人馬の休息・宿泊施設を置き、駅鈴を持っている官人や公文書を伝達する駅使が到着すると乗り継ぎの駅馬や案内の駅子を提供した。最短距離とする為、真っ直ぐになっているのが特徴である。これら七道には、江戸時代の五街道などと重複する呼称がある。時代や成り立ちが異なるものの、ほぼ同じ道筋にはなっている。

今回は、葛飾に残る古代の東海道を巡る。

出発は小岩の佐倉道にある真光院だ。真光院の前で佐倉道とT字に交差している上小岩遺跡通り。それが古代東海道である。

真光院から西へ進むと岩槻道、現在の篠崎街道と交差する。篠崎街道を少し南に進むと元和7年(1621)賢覚によって開山された十念寺がある。

写真1: 十念寺

SANY0030.JPG

本尊の木造阿弥陀如来立像は弘法大師の作と伝えられている。
その他、中小岩の庚申塔河原道石造道標、中小岩の庚申塔市川道石造道標があるが、太子堂に収められており、写真は撮れなかった。

古代東海道に戻り、少し西へ進むと南側に万延元年(1860年)2月創建の五北天祖神社がある。

写真2: 五北天祖神社

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境内には樹齢300年を超える非常に素晴らしいイチョウの木がある。晩秋に再訪しよう。

古代東海道に戻り少し西へ進むと今度は北側にまたしても天祖神社、上小岩天祖神社がある。古代東海道に戻り、西へ。京成小岩の駅を過ぎ、新中川を渡り、旧中川を渡ると、北側に、旧立石村鎮守、平安時代中期の長保年間(999〜1003年)に創祠と伝えられ、陰陽師阿部晴明の勧請と伝えられる立石熊野神社がある。

写真3: 立石熊野神社

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江戸時代の地誌「四神地名録」によると、御神体は「神代の石剣」で極めて珍しいものと記されている。平安時代の熊野信仰は盛んで、花山法王が那智の滝で一千日の修行中邪魔をする天狗を同行した安部晴明が封じ込めて助けたと言われ、当社を勧請した安部晴明と熊野の深い関係を知ることができる。

鎌倉時代、葛飾に縁りある御家人壱岐守葛西三郎清重の崇敬を経て、更に江戸時代には三大将軍義光や八代将軍吉宗が、鷹狩りに当地にお成りの際や、徳川御三卿のひとつ田安家の度々の参拝の折には、必ず「金烏の守護」を献上したと伝えられている。「金烏守護」は、安部晴明が著したとされる陰陽道の秘伝書「金烏玉兎集」によるもの。

当時、紀州熊野三社の神にお使のヤタガラスと宝珠を象った霊験あらたかな牛王宝印は魔除け・厄除け・病気平癒等の守護として、全国に広まっていた。この烏はヤタガラスと言われ、神武天皇に関する「古事記」「日本書紀」の神話にあるカラスの名称だ。神武天皇が熊野から大和へ向かう途路、険悪な参道で道に迷った時、アマテラス大神が夢に現れ、ヤタガラスを先導とすることが教えられ、この烏の先導で無事大和に入ることができたと言われ、以来この烏を神のお使いとしている。日本サッカー協会のシンボルでもあるから、目にしたことがある方も多いだろう。また烏を囲む正五角形は、陰陽師安部晴明の陰陽五行説の木・火・土・金・水に象どり境内が造られていることに由来する。

ここから古代東海道はしばらく旧中川北岸を走るが、古代東海道に戻ると直ぐ南蔵院がある。

写真4: 南蔵院

SANY0041.JPG

開山は不明も、永享元年(1427年)正福寺第5世法印賢寛が中興した。宝暦5年(1755年)将軍放鷹の時、御膳所に指定される。

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_立石 南蔵院.jpg

旧中川北岸沿いに走る道から現在の奥戸街道へと古代東海道は移っていくが、その手前に永禄10年(1567年)覚元法師の創立の西圓寺がある。

写真5: 西圓寺

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旧原村鎮守、原稲荷神社、旧四つ木村鎮守、四つ木白髭神社を過ぎ、現在の水戸街道の手前に、嘉禄元年(1225年)創立、葛西三郎清重の館と伝えられる西光寺がある。

写真6: 西光寺

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寺伝によると、領主葛西三郎清重は幾多の戦功により、鎌倉将軍家から葛西領のうち3500町歩の地を得、晩年、葛西郡渋江郷(現在の四つ木)に閑居した。たまたま親鸞聖人が関東教化のとき葛西氏の館に留錫して、自ら阿弥陀如来の像を画いて与えた。清重は随喜のあまり聖人に帰依して弟子となり、西光房と号し、宅地内に一寺を建てたが、聖人の逗留中、五十余日の間、雨が降りつづいたので山号を雨降山といい、寺を西光寺と名づけた。以来、浄土真宗として法灯を続けたが、永禄7年(1564年)、国府台の合戦で兵火にかかり、寺運衰退し、さらにいくたびかの水害で無住状態となった。寛永年間(1624-43年)、天台宗の旅僧が止宿して、由緒ある法灯の絶えることを惜しみ、村民とはかって天台宗の寺として再興し、浅草伝法院の門末として、山号を超越山と改めた。当寺では、浄土真宗の行事である報恩講式(親鸞聖人の忌日に行う法要)を毎年行っているが、これは阿弥陀如来画像の霊告により、安永4年(1775年)以来、毎年4月8、9、10の三日間、執行されることを通例としている。

本堂の裏側宅地内に、清重稲荷を祀る社屋と、寺から100メートルの民家に囲まれた中に、清重塚という小丘がある。塚は葛西清重夫妻を葬った場所と伝え、寛永8年(1631年)建立の五輪塔1基と、明治の待つ、大槻博士の建てた葛西清重の記念碑がある。なおここから江戸時代に石棺が発掘され、中に多くの武器類が収められていたことが伝えられている。

荒川放水路を渡るとすぐに、旧善左衛門村鎮守の隅田稲荷神社があり、隅田川東岸の墨堤通りに交差して、古代東海道は終わる。

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_渋江 西光寺 清重稲荷.jpg

以上
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