2010年07月31日

42.佐倉道(菅野〜八幡)

前回の続き。

佐倉道を東に進む。

本八幡の駅を過ぎると左手に鳥居が。ここ佐倉道 市川〜海神のメイン2つ目、葛飾八幡宮である。(1つ目は言ってなかったが真間)

写真1:葛飾八幡宮 隋神門

葛飾八幡宮山門.JPG

明治維新以前は、天台宗上野寛永寺の末寺、八幡山法漸寺の仁王門だったが、神仏分離によって当宮の隋神門に。両裾に位置する隋神(右大臣・左大臣)のある場所には仁王像があったが、現在は行徳の徳願寺に遷されている。和様、木造単層切妻の構造をもち、屋根はかつて茅葺だったが、現在では銅葺。三間一戸、丹塗されており、桁行一〇・三六メートル、梁間四・四五メートル。(平成十四年八月、塗替修復工事竣功)

境内に入る。左手に神楽殿。大絵馬が公開されている。

写真2:葛飾八幡宮 神楽殿 大絵馬

葛飾八幡宮神楽殿大絵馬.JPG

幕末に奉納されたもので、葛飾八幡宮の御祭神である神功皇后の新羅出兵を描いたもの。神功皇后は右から2番目。中央には皇后の臣下である武内宿禰(たけのうちのすくね)が描かれ、また皇后の胎内には葛飾八幡宮の主祭神である応神天皇(八幡様)が宿られていると神話(古事記・日本書記)は伝えている。

中央に本殿

写真3:葛飾八幡宮 本殿

葛飾八幡宮本堂.JPG

創建は平安朝の昔、寛平年間(889〜898年)宇多天皇の勅願により下総の国総鎮守八幡宮として御鎮座、以来歴朝の御崇敬篤く、代々の国司・郡司をはじめ、国民の信仰深く、下総の国における葛飾文化、八幡信仰の中心となった。とりわけ平将門の奉幣、源頼朝の社殿改築(治承四年(1180年)武運長久を祈り、建久年中(1190〜99年)には千葉常胤に命じて社殿等の造営修復)、太田道灌の社壇修復(文明11年(1479年)に臼井城(現佐倉市)の千葉孝胤攻略に際し同社に祈願し、社殿修理を行っている。)、徳川家康の御朱印地社領五十二石の寄進(天正19年(1591年))等その尊信は篤いものがあった。また、御主神應神天皇の御事蹟により、文教の祖神、殖産興業、殊に農業守護の神として近郊の信仰をあつめている。毎年九月十五日のご例祭日より二十日まで、広大な境内で催される農具市の盛況さは、古来より関東一。

本殿奥に千本公孫樹がある。

写真4:葛飾八幡宮 千本公孫樹

葛飾八幡宮大銀杏.JPG

多数の樹幹が寄り集まって、まるで根本から一本の大樹が伸びているように見えるところから、千本公孫樹の名で呼ばれる。古くから有名で、江戸名所図会には「神前右の脇に銀杏の大樹あり神木とす。」とあり、さらに「此樹のうつろの中に小蛇栖めり、毎年八月十五日祭礼の時、音楽を奏す。其時数万の小蛇枝上に顕れ出づ。衆人見てこれを奇なりとす。」とある。
樹高22m、根廻り10.2m、目通り10.8mで、根廻りより目通りの太くなっているのも特徴の一つ。

その、江戸名所図会

江戸名所図会_八幡不知森 八幡 八幡宮.jpg

手前の道が佐倉道、参道を左に折れると葛飾八幡宮。そのT字路に藪知らずが見える。参道を進むと右手にドーナツのような池がある。厳島神社だ。隋神門も本殿も見える。今と同じレイアウト。面白い。

葛飾八幡宮の右奥に、葛飾天満宮をメインとした色々な神社が集まっている森がある。

写真5:厳島神社

厳島神社.JPG

写真6:葛飾天満宮

葛飾天満宮.JPG

写真7:葛飾天満宮 石塔群

葛飾天満宮庚申塔等.JPG

木漏れ日が当たり良い雰囲気だったので庚申塔のみアップで

写真8:葛飾天満宮 庚申塔

葛飾天満宮庚申塔.JPG

佐倉道に戻る。

直ぐ、八幡 不知森神社がある。

写真9:八幡 不知森神社

不知森神社.JPG

ここは面白い話がいくつも残っている。江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くに、ここ八幡では「藪知らず」のことを載せている。

「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かず。」
「藪の間口漸く十間(約18メートル)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹藪にして、細竹・漆の樹・松・杉・柏・桑の樹などさまざまの雑樹生じ...」

どれもが、この藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこれないところ、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られていた。

入ってはいけない理由について、

●最初に八幡宮を勧請した旧地である。
●日本武尊が陣所とされた跡である。
●貴人の古墳の跡である。
●平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。
●平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。

と、いろいろ言われてきたが、中でも万治年間(1658〜61年)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まった。

佐倉道を進む。左手に東昌寺がある。

写真10:東昌寺

東昌寺.JPG

船橋市にある宝成寺の末。曹洞宗、浅間山と号する。天正年間(1573〜92年)に大誉和尚が開基。創建当時は現在の八幡六丁目富貴島小学校付近にあったが、寛永元年(1624年)に第三世万明和尚が現在地に移した。

参道入り口になんとなく写真を撮りたくなった石塔がある。

写真11:東昌寺 石塔

東昌寺_石標.JPG

中国っぽい。今日はここまで。
posted by Yogi at 10:10| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月29日

41.佐倉道(新田〜菅野)

前回の続き。

佐倉道に戻り少し戻ると、新田春日神社がある。

写真1:新田春日神社

新田春日神社.JPG

万治元年(1658年)に再建の記録を残す社であるが、それ以前については不明。

暫く進むと新田胡録神社がある。

写真2:新田胡録神社

新田胡録神社.JPG

承応二年(1653年)九月一九日再建の記録のある社であるが、それ以前については不明。境内入り口の脇に斜めになって今にも倒れそうな庚申塔もあった。

写真3:新田胡録神社 庚申塔

新田胡録神社庚申塔.JPG

少し行くと京成菅野駅入り口の標識が。そこを左に入る。直ぐ左手に鎮守の森。平田諏訪神社だ。

写真4:平田諏訪神社

諏訪神社 (2).JPG

往昔、信州諏訪明神を勧請。戦国のころ平田左衛門尉胤俊の尊崇厚く、また古来村中総持として住民に信仰される。昭和三年七月二七日指定村社となる。

それにしても黒松を中心とした森が美しい。佐倉道から続く参道も美しい。

写真5:平田諏訪神社 参道

諏訪神社参道.JPG

そのままこの旧道を進むと京成菅野駅。駅を過ぎると古そうな酒屋さんがあり、その先は黒松が通り脇に植えられている美しい通り。黒松通りと云われている。黒松通りを過ぎバス通りに出て左に行くと、御代院がある。

写真6:御代院

御代院.JPG

この辺りの地区名『菅野』の恐らくは由来である、京都から天慶の乱(天慶3年、西暦940年)の時に、京都から妻を伴い東下してきた菅野氏とその妻の墓標を祀ったのがこの御代院である。
菅野氏の妻は、御代の前といい、容姿が美しかったことから将門の内室になり、将門の出城と言われる大野城に入った。そして内情を探って夫に知らせたところから、大野の落城を早め、将門調伏に功績を立てたといわれている。そのご夫妻は剃髪してこの地に留まり、将門との戦で亡くなった人達の後生を弔いながら亡くなったといわれている。

ここ市川は、将門の伝説が残る地域らしい。面白いことに、ここ菅野辺りは、将門調伏を歓迎する風習が、ここより北の大野地区は将門を崇敬する風習が残るそうだ。

それから、天神様も将門と関係しているらしい。天神様が多いなと感じたはずだ。将門、大野地区は追々調べたいと思う。

さて、御代院から旧道に戻りバス通りを横切って進むと、浄言寺がある。

写真7:浄言寺

浄言寺.JPG

インターネットで調べるも情報無し。将門関連がありそうだが。

更に進むと鎮守の森。白幡天神社。又、天神様だ。

写真8:白幡天神社

白幡天神社.JPG

今よりおよそ800年前の治承4年(西暦1180年)に、源頼朝が下総に入った際、当地に源氏の御印である白旗を掲げたことが御社名の由来と伝えられている。その後、天正12年(西暦1584年)正親町天皇の御代に、御本殿再建の記録がある。現在の本殿は明治13年の造営で、拝殿・幣殿は、昭和36年に鈴木義信宮司の下に造営されたもの。太田道灌により造営されたとか、拝殿の社額は勝海舟の筆によるものだとか、由緒のある神社のようだ。

それにしてもここは非常に美しい森だ。

更に進み、突き当りを左に行くと不動院に出る。

写真9:不動院

不動院.JPG

真言宗豊山派不動院の本尊、不動明王は、天慶2年(939年)、平将門平定のため寛朝僧正が、成田山の明王と同木同作のものをこの地に安置したと伝えられている。また、天正18年(1590年)家康の関東移封のおり、豊臣秀吉はこの本尊に祈念し、のち文禄3年(1594年)秀頼誕生に際して秀吉より寺領を賜ったと伝わるが、安政2年(1858年)の火災で多くの寺宝や記録などが消失したため詳細は不明。

不動院の境内を抜けて県道51号線に出る。暫く進み、旧道を左に折れ平田1丁目で佐倉道に出る。そのまま道なりに佐倉道を横切ると歓照寺別院がある。

写真10:歓照寺別院

歓照寺.JPG

道なりに行くと再び佐倉道に。少し戻り郵便局の先を右に入ると、聖徳太子堂がある。

写真11:聖徳太子堂

聖徳太子堂.JPG

インターネットで調べるも今一情報無し

今日はここまで
posted by Yogi at 21:19| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月25日

40.佐倉道(弘法寺〜国分〜佐倉道)

前回の続き。

弘法寺と千葉商科大学の間の道を北東に斜めに行く道、恐らく旧道を進む。
小高い山をぐるっと回り込むように登るとそこに下総国分寺がある。ここは、下総国分僧寺跡。現在は、国分山国分寺という真言宗豊山派の寺である。

写真1:下総国分寺 南大門

下総国分寺南大門.JPG

写真2:下総国分寺 本堂

下総国分寺本堂.JPG

国分寺及び国分尼寺は、聖武天皇の詔によって一国に一寺建設されたもの。
然し、突然に国分寺建立の詔が出された訳ではなく、国家仏教の推進施策の一環として行われた種々指示の総仕上げとして、国分寺建立の詔が出されたと理解する方が正しいようだ。仏教振興策に関する大まかな出来事を簡単に纏めると、以下のようになる。

天武14年(685年)3月:
 諸国に仏舎を造り、仏像や経を礼拝せよとの詔が出される
持統7年(693年)10月:
 諸国で仁王経を講じさせ、翌年金光明経百部を全国へ配布する
神亀5年(728年)12月:
 金光明経を再び全国へ配布する
天平9年(737年)3月:
 釈迦仏像と挟持菩薩を造り、大般若経を写経せよとの詔が出される。
天平13年(741年)3月:
 国分寺(国分僧寺、国分尼寺)造営の詔が出される

尚、実際にはこの一度の詔では、財政的に疲弊した地方国司を動かすことは出来ず、

天平16年(744年)
 諸国国司に対する国分寺・国分尼寺建立の督促
天平19年(747年)
 国司の怠慢を批判する文書
天平勝宝8年(756年)
 聖武天皇崩御に伴う一周忌に間に合うように建立せよとの督促
天平宝字3年(759年)
 国分寺・国分尼寺図面の配布

などが次々と出されていることから、地方での建立は全く順調ではなかったことが判る。

【国分寺造営の詔、続日本紀(現代語訳)】

三月二十四日、天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしひらきとよさくらひこのすめらみこと、聖武天皇のこと)は次のように詔しました。

朕は徳の薄い身であるが、忝けなくも重任を受け継ぎ、まだ民を導く良い政治を広める事が出来ず、寝ても覚めても恥じることが多い。しかし古来よりの名君は皆祖先の仕事をよく受け継ぎ、国家は安泰で人民は楽しみ、災害無く幸いが齎されてきた。どのような政治を行えばこのような統治が出来るのであろうか。このごろは田畑の稔りも豊かでなく、疫病も多い。それをみるにつけ、我が身の不徳を恥じる気持ちと恐れとが湧き上り、心を痛め自分を責めている。

そこで広く人民の為に普く大きな福があるようにしたい。先年駅馬の使を遣わして全国の神宮を修造し、去年は全国に一丈六尺の釈迦仏一体を造らせると共に大般若経を写させたところ、秋の収穫まで風雨が順調で五穀もよく稔った。これは真心が伝わった為で、不思議な賜り物があったというであり、恐ろしくもあり驚きでもあり、自分でも心が安まらない。そこで、経文を考えるに、金光明最勝王経には、「国内にこの経を講義したり読経暗誦したり、恭しく供養し、流布させれば、一切の災いは消滅し、憂愁や疾病も除去されるであろう。願いは心のまま、いつも喜びが訪れるであろう。」とある。

そこで、全国に七重の塔一基を造営し、会わせて金光明最勝王経と妙法蓮華経を書経させることとする。また、朕は別に金光明最勝王経を写経し、七重の塔毎に一部を置くこととする。仏法が盛んになり、天地に永く伝わり、四天王のご加護を死者にも生者にも届かせて、常に十分であることを願おうと思う。そもそも七重の塔を建造する寺は国の華であり、必ずよい場所を選んで真に永久足らんとしなくてはならない。人家に近くて悪臭が及ぶのは良くないし、遠くては集まる人々が疲れるので良くない。国司は国分寺を厳かに飾るよう努め、清浄を保つように。間近に四天王を感嘆させ、四天王が望んで擁護されるように請い願いなさい。遠近に布告を出して、朕の意向を人民に知らせなさい。また、国毎に建てる僧寺には、封戸五十戸、水田十町を施し、尼寺には水田十町を施せ。僧寺には必ず二十人の僧を住まわせ、寺の名は金光明四天王護国之寺としなさい。尼寺の尼は十人とし、寺の名は法華滅罪之寺としなさい。両寺ともに僧尼は受戒し、欠員があれば速やかに補充しなさい。僧尼は毎月八日には必ず金光明最勝王経を転読し、月の半ばには受戒の羯磨を暗誦し、毎月六斎日には公私共に殺生をしてはいけない。国司は宜しく常に検査をしなさい。

江戸名所図会

江戸名所図会_国分寺.jpg

国分僧寺に来たので尼寺にも足を延ばすことにした。市川市の案内板に従い、畑の間の道を行く。すると、天満宮があった。

写真3:国分天満宮

国分天満宮.JPG

ここ市川は天神様が多いような気がする。真間稲荷も菅公を祀っていた。
暫く進むと小さな祠が。覗いてみると、庚申塔があった。

写真4:北台庚申塔

北台庚申塔.JPG

少し進むと北台庚申堂という一角があり、庚申塔がある。

写真5:北台庚申堂 庚申塔

北台庚申堂.JPG

右側面に、右大はし道、左側面に、左まつさと道と彫られている。(恐らく)
左に進むと国分尼寺跡がある。

写真6:下総国分尼寺

下総国分尼寺跡.JPG

下総国分僧寺まで戻る。国分寺の道路を挟んで向かいに、宝珠院がある。

写真7:宝珠院

宝珠院.JPG

宝珠院の脇の道を東に進む。一つ目の左に折れる道を行くと正面に鎮守の森、国分日枝神社がある。

写真8:国分日枝神社

国分日枝神社.JPG

直ぐ隣に龍珠院

写真9:龍珠院

龍珠院.JPG

インターネットで調べるも、3つとも情報が無い。
宝珠院脇の道に戻り東に進むと経王寺がある。門戸が開いておらず妙な写真となってしまった。

写真10:経王寺

経王寺.JPG

そのまま道を進むと坂を下ることになる。つまり、下総国分寺に行く時上がりここで下がるということはここまでが台地であったということである。坂を下りきると県道264線に出る。左に折れ暫く行くと、竺園寺がある。

写真11:竺園寺

竺園寺.JPG

インターネットで調べるも情報無し
県道264線を佐倉道に向かい進む。すると真間川の手前、須和田の地に六所神社がある。

写真12:六所神社 石塔

六所神社石塔.JPG

神社入り口にある平成8年の由緒によると、今を遡ること1881年前、平成8年は1996年なので西暦115年になるが、景行天皇の詔によって、

大己貴命
大日靈女貴命
伊弉那岐命
素戔嗚命
瓊瓊杵尊
大宮姫命

の六神を祀った宮と伝えられ、国府台字府中の六所の森、現在のスポーツセンターの北に鎮座していたとのこと。その後、下総の国の総社として国守により祭礼がおこなわれてきたが、戦国時代には里見氏、北条氏、千葉氏の守護を受け、江戸時代には、徳川から朱印を賜り篤く崇敬されていた。明治19年、国府台字府中の六所の森が軍用地になった為、ここ須和田に移転となった。

写真13:六所神社 境内 天津神塔道標

六所神社天津祖太神道標.JPG

右側面に、右みやくぼ、左いちかわと彫られている。

県道264線をそのまま進み、佐倉道に出た。(新田5丁目T字路)

続きは次回
posted by Yogi at 10:41| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。