2010年08月05日

45.佐倉道(若宮〜古作〜印内)

前回の続き。

中山法華経寺境内脇の出入り口から、中山法華経寺東側の旧道に出る。道なりに北に進むと正中山奥之院がある。

写真1:正中山奥之院

奥之院.JPG

鎌倉時代中期、下総国守護千葉頼胤に仕えていた富木常忍は、八幡荘と呼ばれていたこの地に館を構え、幕府のある鎌倉と往復した。その際、偶然に、布教に懸命だった日蓮と出会い、熱心な信者になったという。

文応元年(1260年)、鎌倉松葉が谷で焼討ちにあった日蓮は、常忍を頼り、若宮に難を逃れた。常忍は、館の中に法華堂を建て、日蓮に説法を頼んだ。文永元年(1264年)、安房小松原で東条景信に襲われた際も、日蓮は常忍を頼り、若宮に身を寄せた。こうして開かれた日蓮の説法は100回を超えるという。この地が日蓮の初転法輪の旧跡といわれるのはこれが故。

弘安5年(1282年)、日蓮入滅後、常忍は出家し日常と名乗り、法華堂を法華寺とし、後、太田乗明が出家し開いた本妙寺と合体し、法華経寺となる。そして、元あったこの法華寺は奥之院と呼ばれるようになった。

旧道を進むと若宮八幡神社に出る。

写真2:若宮八幡神社

若宮八幡神社.JPG

松葉谷の焼き討ちで若宮に難を逃れた日蓮は、ここ若宮八幡で説法したという。

更に、畑の中の道を進むと県道180号線に出るが、その手前、交差点に庚申塔のようなものが建っていた。表面が剥離し確認できず、写真も撮らなかったが。

県道180号線を突っ切り、突き当りを左に折れると明王院がある。

写真3:明王院

明王院.JPG

長禄二年(1458年)創建、真言宗寺院、旧古作村の中央に位置している。正式には石動山阿遮羅寺明王密院という。寺院本末帳(江戸時代)によると佐倉市井野にある千手院の末寺であったという。また、本郷村の満善寺(明治期に廃寺)、海神村の大覚院と吉祥院、寺内村の常楽寺、河原村の龍厳寺(現双輪寺)等、五ヶ寺の門徒を有していたという。本尊は不動明王で、葛飾誌略(江戸時代)によると『霊験殊勝なる尊像なり』と記されている。

旧道を進む。暫く行くと右手に妙見神社がある。

写真4:妙見神社

妙見神社.JPG

神社の前の台地は往古には海の入り江で、青松白砂の景勝地だったという。この地は寺内と称し、文字通り寺領の内の意味。となりの印内も、院内の意味。この妙見、下総の国の豪族、千葉氏が崇敬した神で、千葉氏がこの地を支配していた時に、篤信の士により奉斎されたものと思われる。

暫く進むと、左手に葛羅の井がある。

写真5:葛羅の井

葛羅の井.JPG

葛飾明神の御手洗の井といわれ、平忠常の父忠頼の産湯を汲んだという伝説があります。文化9年(1812年)、大田南畝によって書かれた「葛羅之井」と銘文が碑に刻まれている。

更に進むと右手に宝成寺がある。

写真6:宝成寺

宝成寺.JPG

社伝によると江戸時代初期に、同地域を治めていた栗原藩成瀬氏の菩提寺として創建された曹洞宗派の寺院。同寺には、成瀬正成の次男之成と之成に殉死した3人の家臣、夭折した之虎、第7代犬山城主成瀬正寿など、17基が存在する市内唯一の大名家の墓所であり、「成瀬氏の墓 附 墓誌」として船橋市の文化財に指定されている。なお、同寺を栗原藩陣屋とする説もあるが、記述の通り、ここは藩主の菩提寺であり、陣屋はここから離れていない場所に別に求めるのが妥当であると考えられる。

この寺も、其の年代は分からぬけれど、智泉和尚(慶長十三年[1608年]七月十一日寂)という者の開基で、葛西六郎茂春という人の開創だと古くから伝えられて居つた。[葛飾誌略]。故に山号を茂春山という。直心場と号する。昔は俗に栗原の東堂と呼んだともいう。元来は智泉以前よりあつた相当の古寺であると見えて、徳川時代には三十石の御朱印寺領を与えられて居つた。...中略...徳川時代の始め此の寺は地頭成瀬氏の菩提所となつた。故に成瀬氏を中興と称する。旧称は法城寺であつたが、この時成瀬氏の成の字をとって宝成寺と改めたのだという。成瀬氏は初代正成寛永二年正月十七日江戸で死去してこの寺に火葬せられた。墓は此処には見当たらぬけれど、今も寺の本堂には其の位牌を安置してある。...略...其の後正成の後嗣之成は寛永十一年(1634年)十月死去して此処に葬られた。その子藤蔵之虎も寛永十五年(1638年)十二月に死して、また此処に葬られた。

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_葛飾明神社 葛の井 萬善寺 栗原宝成寺.jpg

京成本線を過ぎると佐倉道に戻る。

今日はここまで
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2010年07月31日

44.佐倉道(中山法華経寺)

前回の続き。

安房神社を背に真っ直ぐ進むと中山法華経寺の仁王門に出る。

日蓮はその布教活動の中で幾度と無く迫害を受けたが、下総千葉氏の家臣であった富木常忍と太田乗明はこれを自分達の所領のある八幡荘に暖かく迎えた。富木は日蓮のために所領の若宮に寺を造営(法花寺(法華寺とも))し、隣の中山の領主であった太田も自家の持仏堂を寄進した(本妙寺)。特に富木は千葉氏の文吏としても活動していたために日蓮に紙筆を提供し、その執筆を助けた。日蓮の遺文が同寺に多く遺されているのはその縁であると言われている。日蓮死後に富木は出家して法花寺初代住持・常修院日常となった。後に八幡荘を支配した千葉胤貞(九州千葉氏の祖)の帰依を受け、猶子の日祐を3代目住持として本妙寺・法花寺両方の住持を兼ねた。だが、折りしも千葉氏が分裂して胤貞系は下総から駆逐されて肥前国へと追いやられる事になる。だが、日祐は室町幕府との関係を強めてこの危機を乗り切り、後にここを拠点とする中山門流が成立する事になった。以後、代々の住持は本妙寺と法花寺両方の住持を兼務する慣わしとなっていたが、天文14年(1545年)古河公方足利晴氏より「諸法華宗之頂上」という称号が贈られて、この時に初めて法花・本妙両寺を合わせた呼称として「法華経寺」という寺名が誕生したとされている。以後、両寺は事実上統合され、「法華経寺」という一つの寺院として認識されるようになっていった。

写真1:中山法華経寺 仁王門

中山法華経寺 仁王門.JPG

写真2:中山法華経寺 参道

中山法華経寺 参道.JPG

境内に入り正面に五重塔。建築年代は江戸時代の元和八年(1622年)、構造形式は三間五重塔姿、瓦棒銅板葺。この五重塔は本阿弥光室が両親の菩提を弔うために、加賀藩主前田利光公の援助を受けて建立したもの。

前田家が登場してくるとは。。。流石は中山法華経寺。

写真3:中山法華経寺 五重塔(国指定重要文化財)

中山法華経寺 五重塔.JPG

その手前左手に祖師堂。祖師堂は宗祖日蓮聖人をお祀りするお堂で、最初は鎌倉時代の正中二年(1325年)に上棟した小規模な五間堂だった。その後、焼失などにため数回の再建があり、現在の祖師堂は江戸時代中期の延宝六年(1678年)に上棟されたもの。建物は大規模な七間堂で、屋根を二つ並べたような比翼入母屋造の形式を持つのが特徴。このお堂の他に比翼入母屋造の屋根を持つのは全国でも岡山県にある吉備津神社本殿(国宝)だけ。

写真4:中山法華経寺 祖師堂(国指定重要文化財)

中山法華経寺 祖師堂.JPG

石畳に従い歩を進めると右手に中山大仏。享保4年(1719年)、法華経寺第59世日禅上人のときに江戸神田鍋町の鋳物師太田駿河守藤原正義によって鋳造された。大きさは身の丈1丈6尺(約4.8m)、台座2間半(約4.5m)といわれている。

写真5:中山法華経寺 釈迦如来坐像(中山大仏)

中山法華経寺 釈迦如来坐像.JPG

そのまま祖師堂を右から回り込むように進むと右手に本院。

写真6:中山法華経寺 本院

中山法華経寺 本院.JPG

本院に向かう途中左手に荒行堂

写真7:中山法華経寺 荒行堂

中山法華経寺 荒行堂.JPG

道を戻り祖師堂の裏を回り込むように進むと、左から、本行院、刹堂、法華堂、宇賀神堂、太田稲荷神社がある。

写真8:中山法華経寺 本行院

中山法華経寺 本行院.JPG

写真9:中山法華経寺 刹堂

中山法華経寺 刹堂.JPG

写真10:中山法華経寺 法華堂

中山法華経寺 法華堂.JPG

桁行五間、単層入母屋造、銅板葺、文応元年(1260年)の創建。日蓮聖人自ら一尊四菩薩を開眼安置す。百日百座説法の霊跡である。(国指定重要文化財)

その法華堂の門、四足門が又重文。

写真11:中山法華経寺 法華堂 四足門

中山法華経寺 四足門.JPG

隣に宇賀神堂

写真12:中山法華経寺 宇賀神堂

中山法華経寺 宇賀神堂.JPG

その奥に太田稲荷神社

写真13:中山法華経寺 太田稲荷神社

中山法華経寺 太田稲荷神社.JPG

境内入り口の方に進むと途中に右に折れる道、そこに龍王池

写真14:中山法華経寺 龍王池

中山法華経寺 龍王池.JPG

元に戻り境内入り口に進むと途中に妙見堂

写真15:中山法華経寺 妙見堂

中山法華経寺 妙見堂.JPG

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_妙法華経寺.jpg

黒門、仁王門、五重塔に祖師堂、本院、祖師堂の裏手山にいくつかの建物、今と同じレイアウト。面白い。

境内入り口から横の道に出られる。そこで境内から出て、奥之院に向かうが、今日はここまで。
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43.佐倉道(鬼越〜中山)

前回の続き。

東昌寺を過ぎ、真間川を渡り、市川鬼越郵便局を過ぎて直ぐのところを左に折れる。暫く行くと左手に神明寺がある。

写真1:神明寺

神明寺.JPG

真言宗豊山派、本尊は不動明王、寺宝は元和二年(1616年)作阿弥陀如来、鬼越山と号し、元和二年(1616年)日意の開基。

そのまま進み京成本線の踏切を渡ると鬼越神明社がある。

写真2:鬼越神明社

鬼越神明社.JPG

古老の口碑によれば約七百年前より鬼高村に鎮座ましました。境内には元和二年(1616年)伊勢の皇太神宮より遷座されたとの石碑がある。現在の社殿は明治年間の造営である。境内には道祖神(耳の神様)、天神様(学問の神様)、お諏訪様(商売の神様)、与力与直(鎮世)、浅間神社(冨士信仰)があるが、これは大正年間の区画整理のため、村内に散在した神社をお遷したものである。

佐倉道に戻り進むと、常開寺がある。

写真3:常開寺

常開寺.JPG

日蓮宗 法華経寺末、塚原山(ちょうげんさん)と号し、応安七年(1374)法華経寺三世日祐上人の開基。本尊は、釈迦如来と多宝如来。

暫く進むと木下街道。佐倉道と木下街道のT字路には古い民家が。
ここ木下街道は、銚子で水揚げされた魚を行徳を経由して江戸に運ぶ為の道。利根川の木下河岸へ続く道の為、木下街道。かつては銚子道と呼ばれていた。

木下街道に入ってすぐの左手に高石神社がある。

写真4:高石神社

高石神社.JPG

社伝に、南総大多木城主正木内膳亮時総が故あって奇石を得、これを祭ったので高石神と称したとある。また往古、鬼越村と一村であったが、分村して神号を村名としたという。本社の創建年代は不詳であるが、「中山法華経寺文書」永享三年(1431年)十二月二十四日の条と「折伏正義抄」永享十年(1438年)の条に当社の記載あり、その創建はこれ以前である事は分明である。

高石神社は江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_高石明神社.jpg

京成本線を渡ってすぐを右に入る。この旧道を進むと泰福寺がある。

写真5:泰福寺

泰福寺.JPG

更に進むと安房神社がある。

写真6:安房神社

安房神社.JPG

御祭神 國常立命、里見安房守、大宮大権現、山王大権現。御沿革 本社は江戸時代の諸書に「安房の須明神」または「安房の須祠」として記載されている。なかでも江戸名所図会には「安房須明神社」として[中山の北、池田というより北の岡にあり]と書かれ、挿絵を載せている。はじめに祀られた場所は中山村中山字砂原(現在の中山小学校敷地内)で、明治四十二年一月十二日、同敷地内にあった妙見社境内(御祭神、國常立命)に移され、妙見社を合祀しました。さらに大正四年政令によって大宮大権現(中山四丁目・旧中山五〇三番地)、山王大権現(中山三丁目・旧中山三六九番地)を合祀して現在地に建立された。

千葉県神社名鑑には「創建等不詳だが、[快元憎都記]天文六年の条に当社のことを記述す。」とあるので天文六年(1537年)以前の創建といえる。

江戸名所図会には、安房須明神社 同所中山の北池田といふより北の岡にあり。伝へ云ふ、里見越前守忠弘の息男里見長九郎弘次の墓なりといへり。今淡島明神とす。(今猶塚の形を在せり。)

ここから先は中山法華経寺。写真が多いので今日はここまで。

posted by Yogi at 18:38| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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