2010年09月26日

50. 新川(中川合流地点〜豊榮稲荷)


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我が家の近くの地図である。

地図左側に南北に流れる大きな川、これは明治43着工、大正11年通水式、昭和5年工事完了した荒川だ。

その左、東大島の辺りからクネクネと南北に流れ、平井辺りで荒川を突っ切っている川は中川。この川は、荒川が人工的に作った川=放水路であるのに対し、元々あった川、自然の川。

地図右側、南北に流れていた川が妙典の辺りで大きく西側へ蛇行しているが、その川が江戸川。妙典辺りからそのまま東京湾に注いでいる側は江戸川放水路。

江戸川と荒川の間を南北に真っ直ぐ流れているのは新中川。その名の通り、地図には映っていないが、上流で中川から分岐している放水路。

と、我が江戸川区には川が多い。

大きな川だけではない。小さな川も多くある。
地図に青線を引いているが、荒川と江戸川を東西に結んでいるのが新川。
新川から分流している2本の川の内、西側が境川、東川が古川である。荒川から分流しているように見えるのは小松川だ。

今回は、この、新川、小松川、境川、古川にスポットを当て、歴史散策する。
しかし実は古川と新川の一部については、15〜20の行徳塩の道でご紹介済み。よって古川は割愛する。

で、今回は、新川。西から東へ進む。

写真1: 新川物見櫓(西景)

新川物見櫓(西景).JPG

新川は、天正18年(1590年)に江戸に入府した徳川家康が、江戸と塩の生産地であった行徳までの船路として開削を命じた。

元は船堀川で、古川との合流点より東側は無かった。塩の道は元は古川だったのである。しかし、古川は若干北へ流れている。日本橋から真っ直ぐ東へ小名木川を開削し、中川を突っ切り船堀川へ続き、江戸川までも真っ直ぐ繋ごうと新川を作った。新しく作ったから新川、それまでの川は古川となった。

現在は水路としての利用はなくなったものの、「新川千本桜計画」では新川の水辺空間を活用し、2013年3月を目途に全長約3キロメートルにわたって新川両岸に千本の桜を植え、火の見櫓や木造の橋に見立てた人道橋、広場橋を整備するなど、江戸風情あふれる街並みづくりを進めている。

東へ。左岸を行く。
鹿野たばこ店から北へ伸びる道が、いかにも旧道っぽい。あるいは用水か。そこを入ると法然寺。15. 行徳塩の道(新川〜中川口)(http://yogimessage.seesaa.net/article/149409554.html)で紹介済みだが改めて。

写真2: 法然寺

法然寺.JPG

法然寺は元和2年(1616年)一蓮社専誉了雲上人の開山で、ご本尊は山越の来迎阿弥陀如来像。文久3年(1863年)当時の住職によって筆道の家塾と呼ばれた寺子屋が開かれ、現在の船堀小学校の前身となっている。境内には区の文化財でもある青面金剛像庚申塔が建立されている。

写真3: 江戸川区文化財笠付角柱型庚申塔(万治2年(1659年)建立)

法然寺_庚申塔.JPG

鹿野たばこ店に戻り進むとアパートの敷地内に名も無きお稲荷さんがある。

写真4: お稲荷さん(法然寺手前)

お稲荷さん.JPG

右岸に亘る。第一三共の脇を南西に真っ直ぐ行く道がある。ここはかつての用水路。っていうか、今でも水路だが、蓋が被せられ道になっている。そこを進むと豊榮稲荷神社がある。

写真5: 豊榮稲荷神社

豊榮稲荷神社.JPG

元禄3年(1690年)創建と伝えられる古社。法然寺の74年後。豊受姫尊を主神とし、誉田別神を合祀する。伊勢神宮と八幡様ということか。

ここ、豊榮稲荷神社には、多数の観音様やお地蔵さんが集められている。その内、建立念が刻まれているものを写真に収めたので紹介する。

古い順に、

写真6: 豊榮稲荷神社地蔵(享保9年1724)

豊榮稲荷神社地蔵(享保9年1724).JPG

写真7: 豊榮稲荷神社地蔵(享保16年1731)

豊榮稲荷神社地蔵(享保16年1731).JPG

写真8: 豊榮稲荷神社観音(宝暦5年1755)

豊榮稲荷神社観音(宝暦5年1755).JPG

写真9: 豊榮稲荷神社観音(明和8年1771)

豊榮稲荷神社観音(明和8年1771).JPG

今日はここまで
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2010年05月16日

18.行徳塩の道(境橋〜平井)

前回の続き

龍眼寺から再び北十間川に戻り、東に進むとすぐに江東天祖神社がある。

写真1: 江東天祖神社

IMG_0381.JPG

江東天祖神社は、推古天皇(554〜628年)の頃の創建とされ、古くは柳島総鎮守神明宮と称されていた古社である。柳島村の鎮守、村社を経て、現在に至る。亀戸七福神の福禄寿としても有名。境内社の太郎稲荷神社は、筑後立花家下屋敷にあった、立花家の守護神を江戸時代に移したもので、樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社。

更に東に進むと逆井橋の袂に木下川薬師道道標がある。

写真2: 木下川薬師道道標

IMG_0382.JPG

境橋を渡るとすぐ右に吾嬬神社がある。

写真3: 吾嬬神社

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この辺りは東京都墨田区立花と言い、その1丁目1番地にこの吾嬬神社がある。御祭神は弟橘媛(オトタチバナヒメ)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の妃だ。弟橘姫を祭るので吾嬬神社(吾嬬=わが妻)。立花の地名の由来である。隅田川にかかる吾妻橋も、吾嬬神社への参道だからその名となっている。

ヤマトタケルが横須賀走水港から上総国を目指して浦賀水道を航海しているとき嵐が襲い船が難破しそうになった。海神を鎮めるために弟橘媛が海に身を投げると嵐が治まり無事に対岸につくことができた。その後、西の方に舟を進めると一つの島が見えた。そこに弟橘媛の衣服が浮かんでいた。ここに築山を作り衣服を納めた。これが吾嬬神社のいわれとされる。吾嬬神社には楠の枯株が残っている。これはヤマトタケルが媛のため神前に箸を捧げたのが大きな楠になった。又、ヤマトタケルが関東を去るとき足柄峠から東を振り返り、亡き妻を偲んで「吾嬬はや」と言ったので関東を東(あずま)と呼ぶようになったとされている。

広重にも描かれている。

広重_吾嬬の森.jpg

江戸名所図会にも

江戸名所図会_吾嬬の森 吾嬬権現.jpg

鳥がなくあづまの森を見わたせば月は入り江の波ぞしらめる 藤原恭光人道 この和歌は戸田茂睡入道のあらはせる『鳥の跡』 といへる和歌の集に載せたりし、みづからの詠なり。そのはしに「この吾妻の森は東人(あづまびと)といへるが住みしところなり」とあり。 この東人いかなる人にや、いまだ考へず。

縁の弟橘姫入水も描かれている。

江戸名所図会_弟橘姫入水.jpg

吾嬬神社を少し北に行くと、足利時代末期天文年間の草創の明源寺がある。

写真4: 明源寺

IMG_0386.JPG

再び吾嬬神社に戻り、北十間川北岸を東に進み、旧道に入り旧中川沿いに平井橋まで進む。

今日はここまで
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2010年05月10日

17.行徳塩の道(萬年橋〜境橋)

前回の続き

本所吾妻橋の袂、墨田区役所、アサヒビールの一角の横に、嘉祥2年(849年)、慈覚大師の創建と伝えられる天台宗の古刹、如意輪寺がある。

写真1: 如意輪寺

IMG_0375.JPG

境内に聖徳太子像(寺伝によれば大師の作とも太子自作ともいう)を安置した御堂があったことから、「牛島太子堂」とか「中之郷太子堂」の名で広く知られていた。(現在は無い。)

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_中郷 最勝寺 神明宮 太子堂 如意臨寺.jpg

手前が最勝寺。今は平井に移転している、目黄不動。奥に如意輪寺が見える。

北十間川南岸を東に進むと、押上天祖神社がある。ここは中川より西なので、葛西御厨としての天租神社ではないか。

写真2: 押上天祖神社

IMG_0376.JPG

ここ押上天祖神社は、明治5年10月元押上村の村社に列し祭日は9月16日と定められて今日に及んでいる。その起因するところによれば、古く延元年間よりの祭であった。延元は建武の次で、南朝の忠臣楠正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃で今から六百余年の昔に当る。当時は押上と云ったかどうか分からないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところどころに島や浮洲があった。この辺は柳島と云われ早い時代に陸地となり人が住んだところとも伝えられている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。祭神は天照大神と八幡、春日両大神を祭ってある。また一説には現在の京成橋附近で川が増水して堤防に押上げられてあった御神体を、当時附近の農民等が安置して祭ったとも云われている。

更に進むと、横十間川の手前に法性寺がある。

写真3: 法性寺

IMG_0378.JPG

IMG_0377.JPG

法性寺は柳島妙見と呼ばれて江戸時代から信仰する人の多かった寺。天正元年(1573年)創建の日蓮宗真間山弘法寺の末寺で、妙見大菩薩を奉安した妙見堂がある。妙見大菩薩は北斗星を神化したもので、国土を護り貧窮を救うといわれている仏様で、像容は端麗な天女形だ。寺の入口に「北辰妙見大菩薩」と刻まれた高さ170cmの石標が建っている。右側面に「妙見山法性寺」、左側面に「宝暦2壬申(1752年)6月15日坂本町講中 □□町講中」とあり、この石標は、以前は道標をかねて浅草通りに面して立てられていたとのこと。

又、ここ柳島は広重にも描かれている。

広重_柳島.jpg

江戸名所図会にも

江戸名所図会_柳島 妙見堂.jpg

左右に貫かれている道が行徳道。その手前が北十間川。

横十間川を南に少し行くと、龍眼寺がある。

写真4: 龍眼寺

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写真5: 庚申塔

IMG_0380.JPG

応永2年(1396年)開山、良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現れ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより聖観世音菩薩を授かり、至心に祈願した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。その後現在の「龍眼寺」と改められた。御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖堂(八正堂)という。八聖道とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれている。また、境内の万治2年(1659年)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のもの。

江戸名所図会の龍眼寺

江戸名所図会_龍眼寺 萩見.jpg

庭中萩を多く栽ゑて中秋の一(いつ)奇観たり。ゆゑに俗呼んで萩寺と称せり。『万葉集』芳子(はぎ)に作り、『和名抄』鹿鳴草(はぎ) に作る。『続日本書紀』に、「仁明承和元年八月、清涼殿に内宴す。これを芳宜(はぎ)華の讌(えん)といふ」とありて、 皇朝古へより萩を愛せられしことかくのごとし。

今日はここまで
posted by Yogi at 23:15| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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