2010年10月30日

57. 境川(三嶋橋〜陣屋橋)

前回の続き。

境川の環七の橋、三嶋橋から環七を左に行くと、先程の日蓮宗3山があった、元は用水と思われる道に出る。そこを右手に進むと、左手に、広済寺と證大寺がある。

写真1: 広済寺

広済寺.JPG

黄檗宗というあまり聞かない宗派のこのお寺さん。黄檗宗をWikiで調べてみると・・・

黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本における仏教の宗派であり、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである。唐の僧・黄檗希運(臨済義玄の師)の名に由来[1]する。臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は明朝風様式を伝えている。本山は隠元の開いた、京都府宇治市の黄檗山萬福寺(おうばくさん まんぷくじ)である。

日本では、江戸時代初期の1654年(承応3年)に明末清初の中国から招聘された中国臨済宗の隠元隆gにより始まる。1740年(元文5年)に第14代住持に和僧の龍統元棟が晋山するまでは伝統的に中国から住職を招聘してきた。当初、正統派の臨済禅を伝えるという意味で「臨済正宗」や「臨済禅宗黄檗派」を名乗っていた。宗風は、明時代の中国禅の特色である華厳、天台、浄土等の諸宗を反映したいわゆる混淆禅の姿を伝えている。幕府の外護を背景として、大名達の支援を得て、鉄眼道光らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めたため、次第に教勢が拡大した。萬福寺の塔頭は33ヵ院に及び、1745年の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられている。
1874年(明治7年)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」(りんざいしゅうおうばくは)に改称させられたが、1876年(明治9年)、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった。

・・・とのこと。日本に来た1654年から、和僧が晋山する1740年までの約100年も中国から住職を連れてきていたところなんか、マイノリティの意地を感じる。

直ぐ隣に證大寺

写真2: 證大寺

證大寺.JPG

このお寺さんのホームページによると・・・

證大寺の歴史は、続日本後記に、参議刑部卿小野岑守が承和二年(八三五年)に福岡県京都郡犀川町に病人や餓死する者の多い事を哀れみ、続命院という御堂を建立し、難民を救った事に端を発します。
その後、長い歴史を経て、現在では、親鸞聖人の御教えを伝える寺院として、首都圏においてお勤めしております。

・・・と、いうことで、以外にも、親鸞縁の寺であった。この辺りだと、明福寺、了善寺、西光寺もそうだった。

境川に戻り川沿いを進む。

すると、日枝神社、光明寺、法龍寺と固まっているエリアがある。

まずは日枝神社

写真3: 日枝神社

日枝神社.JPG

船堀の氏神様。元の氏神様は既述のように三嶋神社。1614年(慶長19年)に、船堀を新田として開発した際に勧請したのが始まり。

次に光明寺

写真4: 光明寺

光明寺.JPG

真言宗豊山派。開山は覚仙上人で、日枝神社と同じ1614年(慶長19年)に、本尊として不動明王を祀り一宇を建立したのが始まり。

この年代の符合は、ただの野原だったところに、新田を開発するぞと人が集まると、神社を作り、お寺さんを呼び、そうして街が出来上がっていくということが良く分かる。

法龍寺は写真撮らず。

そのまま川沿いを進むと陣屋橋通りに出る。ここが陣屋橋。陣屋の名は国府台合戦寺にここに北条方の陣屋があった為。詳しくは15. 行徳塩の道(新川〜中川口)(http://yogimessage.seesaa.net/article/149409554.html)で紹介済。

これで境川はお終い。
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2010年10月23日

56. 境川(元行徳道〜三嶋橋、川沿い)

前回の続き。

元行徳道から境川沿いではない道を進んだので、又元行徳道まで戻る。

元行徳道から境川を進むと、右手に水神宮がある。

写真1: 元行徳道付近 水神宮

元行徳道付近 水神宮.JPG

写真は晩秋の銀杏が美しい時期に撮ったもの。境川沿いの水神宮はこれで2つ目。

更に進むと、3つ目の水神宮がある。

写真2: 川岸稲荷神社付近 水神宮

川岸稲荷神社付近 水神宮.JPG

更に進むと、三嶋神社があるのだが、その手前に見過ごしがちな祠があり、そこにお地蔵さんがある。

写真3: 三嶋神社付近 地蔵

三嶋神社付近 地蔵.JPG

相当古いのか、風化が激しい。左のものは台座しか残っていない。

で、三嶋神社。

写真4: 三嶋神社

三嶋神社.JPG

このブログで三嶋神社は初めての登場。調べてみる。

伊豆国一の宮である静岡県三島市にある三島大社は、三嶋、あるいは三島と書かれる各地の神社の根元社であるとのこと。ここもそうだろう。

三嶋は、「御島」から変化したもので、もとは、富士火山帯である、伊豆七島に代表される伊豆諸島の神。
噴火や造島を神格化したものだと思われる。

三嶋大明神は、三宅島を本拠とし、伊豆諸島に多くの后神や、多くの御子神を持ち、造島・開発に努め、伊豆半島東岸の白浜に、正妃・伊古奈比唐ニ並んで鎮座していたという。

延喜式に記載されている伊豆三嶋神社は、その当時のものだと思われるが、その後、平安中期以降に、国府のあった現在地に新宮として分祀されたのが当社。源頼朝の崇敬が篤く、現在のような大社となった。

祭神は、大山祇命と事代主命であるが、大山祇命は、大三島に鎮座し伊予国一の宮である大山祇神社の祭神。三島の社名の類似から、大三島から勧請されたという説が古くからあるらしい。事代主命は、平田篤胤の説による。

さて、ここ江戸川区の三嶋神社だが、寛政2年(1790年)頃、この地に移住した新右衛門、権兵衛、長兵衛などが協議の上守護神として勧請、この地に小社を建立したのが始まりで、東船堀村草分けの氏神と云われている。祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)、盤長姫命(いわながひめのみこと)、木花咲那姫命(このはなさくやひめのみこと)。この神社は村の北の端に在った為、江戸時代に建てられた日枝神社が氏神になったが、旧家は未だにここを氏神として敬っているそう。

今日はここまで。
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55. 境川(元行徳道〜三嶋橋)

前回の続き。

元行徳道を左へ。銀杏並木通りに入る。恐らくここは用水路だった道。後日、調べてみようと思う。
さて、銀杏並木通りを入り、一つ目を右、直ぐに左一つ目を右に入ると、白山神社がある。

写真1: 白山神社

白山神社.JPG

このブログでは初めての登場だろう、白山神社は。少し調べてみる。

Wikiより・・・
白山神社は、白山の神を祀る神社である。加賀国の白山比盗_社を総本社とする。祭神は菊理媛神(白山比盗_)・伊弉諾尊・伊弉冉尊の3柱としているものが多い。

ここで「白山」とは、白山国立公園内の石川県白山市と岐阜県白川村にまたがる、標高2,702mの山で、富士山、立山と共に日本三名山(日本三霊山)のひとつであるとのこと。白山信仰は、養老元年(717年)修験者泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の御前峰に登って瞑想していた時に、緑碧池から十一面観音の垂迹である九頭龍王が出現して、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って顕現したのが白山修験場開創の由来と伝えられ、以後の白山信仰の基となったそう。平安時代には、加賀、越前、美濃の3国に禅定道が設けられ、「三箇の馬場は、加賀の馬場、越前の馬場、美乃の馬場也」(三馬場)と称された。

又、「菊理媛神」とは、日本神話においては、『古事記』や『日本書紀』本文には登場せず、『日本書紀』の一書に一度だけ出てくるのみの神様。神産みでイザナミに逢いに黄泉を訪問したイザナギは、イザナミの変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、そこでイザナミと口論になる。そこに泉守道者が現れ、イザナミの言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言い、菊理媛神が何かを言うと、イザナギはそれを褒め、帰って行った、とある。菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない。この説話から、菊理媛神はイザナギとイザナミを仲直しさせたとして、縁結びの神とされている。また、死者(イザナミ)と生者(イザナギ)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。ケガレを払う神格ともされる。神名の「ククリ」は「括り」の意で、イザナギとイザナミの仲を取り持ったことからの神名と考えられる。他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜り」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある。

白山神社は日本各地に2,700社あまりあるが、特に岐阜県・愛知県・石川県・新潟県・静岡県に多く分布する。中世には白山比盗_社の前身である白山寺白山本宮や、白山中宮長滝寺(美濃国)、霊応山平泉寺(越前国)が近江国比叡山延暦寺の末寺になっていたことから、天台宗や白山修験の普及とともに各地に勧請された。勧請元としては白山寺白山本宮(白山比盗_社)、白山中宮長滝寺、霊応山平泉寺が主で、長滝寺より勧請したものが最も多く、現在でも白山神社が最も多くあるのは岐阜県である。しかし、この3社のうち『延喜式神名帳』に記載されているのは白山比盗_社だけであるため、明治時代に白山比盗_社が「日本全国の白山神社の総本社」と認定され、各地の白山神社の多くは「白山比盗_社から勧請を受けた」というように由諸を書き換えた、とのこと。

泰澄の本名は、秦泰澄というそうで、白山(しろやま、しらやま)の「しろ」、「しら」は、新羅から来ているとも言われていて、渡来人との関連も議論されているそう。

白山神社、私のこれまでのテリトリーである、江戸川区、葛飾区、市川、船橋辺りでは殆ど見かけない。同じく渡来人との関わりを議論されている白髭神社はそこそこあるが。白髭神社と合わせマッピングしてみたり、白山神社周辺で渡来人の形跡を散策するのも面白いかもしれない。

その白山神社の脇に庚申塔がある。

写真2: 白山神社 庚申塔

白山神社 庚申塔と観音様.JPG

祠の中にあるので日が当らず暗かった。なので、iPhoneのフラッシュカメラのアプリで撮ったが今一。

元行徳道に戻り境川に向かい、境川を通り過ぎてバス通りに出る。ここも恐らく用水跡。ここを右に行く。すると、右手に妙覚寺がある。

写真3: 妙覚寺

妙覚寺.JPG

日蓮宗で金鳥山等覚院と号し、もと中山法華経寺の末。弘安7年(1284年)等覚院日全上人の開山。その後本山106世順竹院日泰が中興したもので、本尊には祖師日蓮の木像を安置する。裏には法華経堂刻彫日朗とあって日本三体の祖師の一つと伝えられている。寺伝によれば日全上人は千葉介宗胤の弟であるという。
春江橋のたもとにある第六天堂は同寺の持であるが、この縁起については言い伝えが残っている。

又、千葉氏が祀った妙見島の妙見神社、そのご神体がここにあるとの寺伝があるが、実際には見つかっていないとのこと。

直ぐ先に長勝寺

写真4: 長勝寺

長勝寺.JPG

日蓮宗で利栄山善学院といって中山法華経寺の末であった。この寺は日蓮宗である妙覚寺と感応寺の中間にあるので通称「中寺」と呼ばれている。天正11年(1583年)善学院日信上人が起立した。日信上人は妙覚寺第9世日住上人の弟子で寛永2年(1625年)12月11日入寂した。本尊には一尊四士と鬼子母神をまつり、境内には「浄行菩薩」の像がある。

先に進むと右手に感応寺

写真5: 感応寺

感応寺.JPG

江久山と号し、蓮光院ともよぶ。元久2年(1205年)空念が開山した時は真言宗であったが、正応元年(1288年)日蓮聖人によって日蓮宗に改められた。安政2年(1855年)には倒壊したが、塔頭蓮明坊、是林坊のニ院があって中本寺として重きをなしていた。本尊には壱塔両尊四菩薩四天の木像を安置している。寺宝には釈尊涅槃絵、日蓮聖人筆の消息断片などがある。

先に進む。大きな農家の屋敷と7・11がある交差点を右へ。暫く行くと川岸稲荷神社がある。

写真6: 川岸稲荷神社

川岸稲荷神社.JPG

インターネットで調べるも情報無し。が、この通りは細さといい、曲がり具合といい、一時期栄えていた形跡もあることから、旧道なんだと思う。アパートやマンションなど、やたらと「佐々木」が多いのだが、それは、ここに佐々木養魚場があるからだろう。佐々木養魚場は古くからある金魚屋さんだ。

そのまま進むと境川に戻る。境川と環七がぶつかる三嶋橋の所。

今日はここまで。
posted by Yogi at 18:09| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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