2011年07月15日

150. 名所江戸百景81 千住の大はし

名所江戸百景シリーズの第81弾、今回は、千住の大はしである。

千住の大はし.jpg

この絵は、千住大橋南岸、東寄りから、千住大橋越しに上流方面、北西方面を望んだ絵である。隅田川には秩父の山々から切り出した木材を運ぶ大型の帆船が浮かび、画面奥には秩父か日光か、連山が見える。千住大橋を渡った向こう側には、千住宿も見えている。

千住大橋が架けられたのは、家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月、隅田川では最初の橋となる。橋が架けられた後は、白鬚橋付近にあった橋場の渡しから、この千住大橋に、佐倉街道、奥州街道、水戸街道が移った。

千住大橋は何度も改架、改修が行われ、計6回に及ぶ。明治18年(1885年)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸300年を生き抜いた名橋と言われる。

千住大橋といえばもう一つ、芭蕉だ。

『旅立ち』

弥生も末の七日、曙の空朧々として、月は在り明けにて光をさまれるものから、富士の峰幽かに見えて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心細し。睦ましき限りは宵より集いて、舟に乗りて送る。千住というところにて舟を上がれば、前途三千里の思い胸に塞がりて、幻のちまたに離別の涙を注ぐ。

行く春や鳥啼魚の目は涙

これを矢立ての初めとして、行く道尚進まず。人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆる迄はと、見送るなるべし。

光景が目に浮かぶような、美しい文章だが、一方で、では何故旅に出たのか? とも、思う。

安政5年(1858年)の地図

千住の大はし.JPG

現在の地図


より大きな地図で 千住の大はし を表示

日枝神社、誓願寺、スサノオ神社(牛頭天王)は、今でも在る。

そこでの写真

cameraroll-1310464580.969500.jpeg千住の大はし.jpg

現在の地図を見ても少し分かりづらいが、ここら辺りの隅田川南岸は、高いコンクリートに覆われ、ちょうど良い場所で撮影できない。写っている橋は実は日比谷線の鉄橋である。

と、いうことで、千住大橋の写真も。

cameraroll-1310464589.518503.jpeg

橋は、広角の絶好の被写体である。

以上
posted by Yogi at 20:43| 東京 ☀| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月17日

149. 名所江戸百景80 赤坂桐畑・赤坂桐畑雨中夕けい

名所江戸百景シリーズの第80弾、今回は、赤坂桐畑と赤坂桐畑雨中夕けいの2景である。

赤坂桐畑

赤坂桐畑.jpg

赤坂桐畑雨中夕けい

赤坂桐畑雨中夕けい.jpg

両方共、溜池の西岸に立ち、東側、溜池を望んだ絵である。

桐畑の方は南の方、虎御門方面を、雨中夕けいの方は北の方、赤坂御門方面を望んでいる。

桐畑の方は、広重得意のアップで桐を据えた構図で、溜池の青い水面と画面左側の山王の山の緑が美しい。雨中夕けいの方は、二代広重の作品だが、鳥瞰構図で、赤坂御門に向かう坂道と奥には紀伊殿上屋敷内の森が見える。

松平美濃守下屋敷と溜池の間の敷地、ここには、溜池の土手の地盤強化の為、桐が植えられ、桐畑と呼ばれた。

古くから桐は鳳凰の止まる木として神聖視されており、日本でも嵯峨天皇の頃から「菊の御紋」に次ぐ高貴な紋章とされた。また中世以降は武家が望んだ家紋としても有名で、豊臣秀吉などもこれを天皇から賜っている。この紋章、そう言えば、「江」で見た気がする。以降、五七桐は「政権担当者の紋章」という認識が定着することになった。

関ヶ原の戦いで徳川側についた黒田氏は、戦い後、52万石を与られ、末は、松平姓を冠することを許され、福岡筑前藩主 松平美濃守となった。だから、桐だったのか。

安政5年(1858年)の地図

赤坂桐畑・赤坂桐畑雨中夕けい.JPG

今はもう埋め立てられ無い溜池、溜池の西側には松平美濃守下屋敷、溜池と下屋敷の間に、『桐畑ト云』の文字が見える。

現在の地図


より大きな地図で 赤坂桐畑・雨中夕けい を表示

ブルーで溜池跡を囲ってみた。溜池の南側のブルーラインは水路。パープルラインは松平美濃守下屋敷。青山通り、都道413号等、良く見ると、殆ど道はそのまま残っている。

そこでの写真

赤坂桐畑

cameraroll-1308135176.930025.jpeg赤坂桐畑.jpg

街路樹を桐に見立てて。ここ、写真には上手く表現できていないが、外堀通りが奥に行くに従い左にカーブしている様子、山王さんの山等、非常に雰囲気が残っている。外堀通りを溜池と思って今一度よくよく見ていただきたい。

赤坂桐畑雨中夕けい

cameraroll-1308135174.020089.jpeg赤坂桐畑雨中夕けい.jpg

本当にここは年中工事をやってて見苦しい。が、ここも雰囲気は残っている。びっくりするのが、写真では小さくなってしまいわかりづらいが、赤坂御門に向かう坂道の奥にある森だ。今も、大久保公哀悼碑がある公園の森が同じ場所に見えている。

最後に、山王日枝神社の参道鳥居

cameraroll-1308135170.165945.jpeg

以上
posted by Yogi at 22:44| 東京 ☁| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

148. 名所江戸百景79 堀切の花菖蒲

名所江戸百景シリーズの第79弾、今回は、堀切の花菖蒲である。

堀切の花菖蒲.jpg

この絵は、堀切菖蒲園の一面に咲く菖蒲を描いたものである。

堀切菖蒲園の始まりには二説ある。

一つは、室町時代、堀切村の地頭久保寺胤夫が、家臣の宮田将監に命じ、陸奥国郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せて栽培を始めたというもの。

もう一つは、江戸時代、百姓の小高伊左衛門が、趣味で各地の花菖蒲を集めて庭で栽培したというものだ。

江戸時代、家康、秀忠、家光の三代将軍の花癖が元で、多くの花が江戸に集まり、江戸は、世界に類を見ない園芸都市に発達した。広重も多くの花を描いている。加えて、広い敷地に庭園を持つ大名屋敷で埋め尽くされていたのだから、本当に美しかっただろう。

さて、花菖蒲の話に戻すと、江戸っ子は、「受け咲き」と言われる、花弁が垂れずに水平に、時にはやや抱え咲きに近くなるほどの花形を好んだ。この広重の絵もそうなっている。細かい。

明治13年(1880年)の地図

堀切の花菖蒲.JPG

堀切は江戸ではないので切絵図ではカバーされていない。

左の大河は隅田川・鐘ヶ淵、綾瀬川が右下に走る。その北側に堀切村の文字が見える。

現在の地図


より大きな地図で 堀切の花菖蒲 を表示

荒川放水路が新たに加わったが、隅田川と綾瀬川は残っている。

そこでの写真

cameraroll-1307836776.134529.jpeg堀切の花菖蒲.jpg

パーフェクト!

以上
posted by Yogi at 22:10| 東京 ☁| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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