2011年06月11日

147. 名所江戸百景78 王子稲荷の社

名所江戸百景シリーズの第77弾、今回は、王子稲荷の社である。

王子稲荷の社.jpg

この絵は、王子稲荷の社左後方から参道入口方面、北東を望んだものである。筑波山が見えている。

王子稲荷は、創建年こそ不明だが、源頼義が陸奥守として赴任する際、ここ王子稲荷に戦勝を祈願したというから、永承6年(1051年)には既に在ったことになる。尚、単なる赴任に戦勝祈願は要らない。頼義は、後に前九年の役と呼ばれる戦の為に赴任したのだ。

この時、頼義は、ここ王子稲荷を関東稲荷総司とした。この時の関東とは東国33国を指す。が、江戸に入り、寛政の改革で行政干渉があり、関八州(関東)の総社の位置付けに格下げされてしまった。

それにしても、ここ王子は源氏と所縁がある土地だ。

約100年後には、頼朝が松橋(金剛寺周辺)を訪れている。

頼義は陸奥守に任じられた時、相模守だった。頼朝は『王子瀧の川』で既述のようにここ王子から鎌倉に向かった。

ふと、疑問に思う。鎌倉や相模の国から奥州に向かうなら、東海道を日本橋を経由して、浅草橋、千住を抜ける奥州道中ではないのか。何故、王子なのか・・・

今一度考えると、奥州道中は江戸時代の街道。頼義や頼朝は平安後期、鎌倉の時代である。
『いざ鎌倉』で、御家人たちが有事に鎌倉に向かった道、鎌倉街道は、多摩川からだと、

厚木街道→(二子玉川)→玉川通り→R246→(駒沢)→(三軒茶屋)→(渋谷)→明治通り→(原宿)→(千駄ヶ谷)→(新宿)→(東池袋)→(西巣鴨)→(紅葉橋)→(東十条)→(赤羽)→北本通り→(川口)

と、いうルートである。川口から宇都宮までは江戸時代の御成道と同じ、宇都宮から陸奥へは奥州道中と重なる。だから、ここ王子だったのだ。

では何故鎌倉街道は東海道と同じルートではなかったのか。

鎌倉街道と東海道を地形図に乗せた地図

鎌倉街道と東海道.JPG

もちろん南を走っているのが東海道。これを見て分かるように、埋立てが全く行われていなかった鎌倉時代は、東海道は海、あるいは湿地帯だったと思われる。

話を元に戻して、王子稲荷周辺の安政5年(1858年)の地図

王子稲荷の社.JPG

現在の地図


より大きな地図で 王子稲荷の社 を表示

そこでの写真

cameraroll-1307162078.795400.jpeg王子稲荷の社.jpg

パーフェクト!

以上
posted by Yogi at 11:44| 東京 ☔| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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