2011年04月25日

137. 名所江戸百景68 川口のわたし善光寺

名所江戸百景シリーズの第68弾、今回は、川口のわたし善光寺である。

川口のわたし善光寺.jpg

画面中央を流れるは荒川(隅田川)、6艘の筏と1艘の人を乗せた渡し船が見える。画面右上に見えるのは川口の善光寺である。善光寺の手前と川のこちら側には渡しに付随する建物が見える。江戸の人々の躍動感が感じられる絵である。

善光寺は、建久6年(1195年)定尊の開創と伝えられている。定尊は6歳の時出家し常に法華経及び弥陀の名号を唱念し信州善光寺如来の模鋳を発願、建久6年に完成し、これを奉持して諸国を巡化中、この地に一宇を建立、如来像を安置した。これが善光寺の起源である。かつて川口寺と言っていたが、信州善光寺に似ているところから、善光寺と呼ばれるようになったていうが定かではない。中興は一容、本尊一光三尊阿弥陀如来は、一容の作であると伝えられている。

この川口の渡しは、日光御成道(岩槻道)の一部、日光御成道は、徳川歴代将軍が日光東照宮への参詣に使った道。家康の忌日である四月十七日に執り行われる祭礼には、将軍自らが参詣するか、大名や高家を名代として参詣させた。江戸日本橋を起点に、本郷追分で中山道と分岐し、岩淵宿、川口宿、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を経て、幸手宿の南方で五街道の一つ日光道中と合流する。

江戸〜岩槻間の道筋は、岩槻藩の参勤交代の順路となっているところから岩槻街道とも呼ばれていた。

千住〜幸手間の日光街道を利用しなかったのは、御成街道にある岩槻城を宿舎とした為。

荒川は通常、舟渡しだったが、将軍日光社参の際は幅三間、長さ六五間の板橋が架橋された。

明治13年の地図

川口のわたし善光寺.JPG

地図中央下、日本の道があるが、東側が岩槻道、もう一方の道とT字で交差し北に向かう。川は荒川、川の上、点線で表されているのが川口の渡しである。荒川の向こうには川口町の文字が見える。

現在の地図


より大きな地図で 川口のわたし善光寺 を表示

赤ポイントで善光寺をポイントした。ブルーポイントが広重推定立ち位置、ブルーラインは推定視線。

ご覧頂いてお分かりの通り、当時の道がほぼそのまま残っている。

そこでの写真

cameraroll-1303650251.664550.jpeg川口のわたし善光寺.jpg

画面右上、高いビルの手前に青銅色の屋根が見える。それが善光寺だ。

流石にここまで来ると、又、川近くなので、雰囲気は残っている。

最後にその他の絵

暁斎_川口善光寺

暁斎_川口善光寺.jpg

江戸名所図会 川口 善光寺

川口 善光寺.jpg

以上
posted by Yogi at 22:07| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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