2011年01月08日

81. 名所江戸百景J 吾嬬の森連理の梓

江戸名所百景シリーズ第十一弾、今回は、吾嬬の森連理の梓である。

吾嬬の森連理の梓.jpg

真ん中を流れるのは北十間川である。

安政5年(1858年)の地図では、

吾嬬の森 連理の梓.JPG

真ん中に吾嬬神社を配置した。

現在の地図で広重推定視点


より大きな地図で 吾嬬の森連理の梓 を表示

これは現在でも同じ視点で捉えやすい。

写真1: 広重推定視点

IMG_0204.JPG吾嬬の森連理の梓.jpg

色々邪魔なものもあるが、画面真ん中の幟があるところが吾嬬神社の参道入り口である。福神橋から撮った。

広重の絵では北十間川は左に大きく蛇行しているが、それは広重が良くやる手法。実際は真っ直ぐである。

ここ吾嬬神社は江戸名所図会にも描かれている。

吾嬬森 吾嬬権現 連理の樟

吾嬬森 吾嬬権現 連理の樟.gif

吾嬬森 弟橘姫入水の図

吾嬬森 弟橘媛入水の図.gif

広重の江戸近郊八景之内

吾嬬杜夜雨.jpg

続いて吾嬬神社の諸々写真を。

写真2: 吾嬬神社 参道入り口より全景

IMG_0206.JPG

写真3: 吾嬬神社 文政12年建立の歌碑

IMG_0207.JPG

写真4: 吾嬬神社 鳥居 拝殿

IMG_0208.JPG

写真5: 吾嬬神社 神樟

IMG_0210.JPG

写真6: 吾嬬神社 吾嬬森碑

IMG_0211.JPG

【境内掲示縁起】

抑当社御神木楠は昔時日本武命東夷征伐の御時、相模の國に御進向上の國に到り給はんと、御船に召されたる海中にて暴風しきりに起り来て、御船危ふかしりて御后橘姫命、海神の心を知りて、御身を海底に沈め給ひしかば忽、海上おだやかに成りぬれ共、御船を着くべき方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀にも西の方に一つの嶋、忽然と現到る。御船をば浮洲に着けさせ、嶋にあがらせ給ひて、あ〜吾妻戀しと宣ひしに、俄に東風吹来りて橘姫命の御召物、海上に浮び、磯辺にただ寄らせ給ひしかば、尊、大きに喜ばせ給ひ、橘姫命の御召物を則此浮洲に納め、築山をきづき瑞離を結び御廟となし此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ。海上船中の守護神たり。尊神ここに食し給ひし楠の御箸を以て、末代天下太平ならんには此箸二本ともに栄ふべしと宣ひて、御手自ら御廟の東の方にささせ給ひしに、此御箸忽ち根枝を生じし処、葉茂り相生の男木女木となれり。神代より今に至りて梢えの色変わらぬ萬代おさめし事、宛然神業なり。其後民家の人々疫にあたり死する者多かりしに、時の宮僧此御神木の葉を与えしに、病苦を払ひ平癒せしより、諸人挙って尊び敬ひぬ。今こそ此御神木楠の葉を以って護符となして裁服するに、如何なる難病にても奇瑞現れぬと云ふ事なし。凡二千有余年の星霜おし移ると云へ共、神徳の変らざる事を伝ふべし。共猶諸人の助けとならんと、略してしるす也。

と、いうことで、ここも日本武尊縁の地であった。日本武尊縁の地を繋ぐと、日本武尊東征の道が分かるのではないか。

所で隅田川の本所吾妻橋、何故『吾妻』なのかというと、ここ吾嬬神社への参道だったから、だそうである。

江戸名所図会、江戸名所百景にも取り上げられていて、相当な、名所であったのだろう。

以上
posted by Yogi at 13:52| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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