2010年10月31日

61. 小松川(首都高速小松川線〜ラスト)

前回の続き。

西蓮寺からそのまま首都高沿いを東へ。すると道路の向こう側に赤稲荷神社がある。

写真1: 赤稲荷神社

赤稲荷神社.JPG

赤稲荷神社の前の道、恐らく旧道と思われるこの道を行くと、直ぐに船堀街道に出る。出たところに東善寺がある。

写真2: 東善寺

東善寺.JPG

船堀街道の向こう側に、この道に続いているような道がある。恐らく本当に続いている旧道だろう。そこを行く。京葉道路を過ぎたら小松川に当たる。そのまま小松川沿いに進む。すると直ぐに右岸側に真新しい倉前稲荷神社がある。

写真3: 倉前稲荷神社

倉前稲荷神社.JPG

先に進むと元佐倉道を渡る。袂には東小松川香取神社がある。9. 元佐倉道(五分一〜南小岩)(http://yogimessage.seesaa.net/article/146810463.html)で紹介済みの為、省略。更に進む。新小岩香取神社(9. 元佐倉道(五分一〜南小岩)(http://yogimessage.seesaa.net/article/146810463.html)で紹介済み)を過ぎて2つ目の見過ごしがちな道を左に入る。ここは旧道だ。そのまま進む。暫く行くと右手に八坂神社がある。

写真4: 八坂神社

八坂神社.JPG

この散策で初めての八坂神社。調べてみると・・・

神社所蔵の「写之書」には、上総・下総・安房三国の領主里見義弘(-1578)の家臣丸子実義、杉山兵部、その弟杉山藤三郎が、上下小松の郷の農民となり、宇多天皇勅願の牛頭天王を小祠に祀ったと記している。江戸時代末期にコレラ病が流行した際には杉山家伝来の扇で祓浄したという。現在は32戸の信奉者が当番制で祭事を行っている。

・・・とのこと。

直ぐ先に照明寺がある。

写真5: 照明寺

照明寺.JPG

なかなか由緒正しいお寺さんの様子で、新編武蔵風土記稿によると・・・

新義真言宗、上小松村正福寺末、光明山真光院と号す。本尊阿弥陀を安す。正安3年(1301年)建立と傳ふれど、開山開基等詳ならず。寺寶は、弘法大師自画像一幅、阿弥陀像一幅(親鸞上人の筆なり)、地蔵堂。

葛飾区寺院調査報告によると・・・

寺伝によると、当寺の場所はもと本寺正福寺のあったところで、同寺移転後の正安3年(1301年)あらためて一寺を創立、照明寺と名づけたという。以来670余年の法灯をつづける古刹だが、うくたびかの水火災により記録を失い由緒は不明である。元文4年(1739年)の「正福寺惣門末起立録」には、次のように記されている。

下小松村 光明山 真光院 照明寺
1 本尊 阿弥陀如来
1 開基 正安3年 開僧不分明 元文4年迄 凡431年
1 五社大明神社地 5畝歩 御見捨
1 境内 1反3畝歩 御見捨
1 寺附 1町4反4畝歩 御年貢地
1 御代官所 伊那半左衛門殿

現在の本堂は、安政2年(1855年)の地震の後、間もなく再建されたもので、明治11年と大正15年に再度修復された。

意外なところで又親鸞の足跡。弘法大師の自画像まであるとは。

更に進むと南葛八十八か所巡り七十番と表記のある地蔵祠がある。ここが旧道の証。

写真6: 南葛八十八か所巡り七十番

葛八十八か所巡り七十番.JPG

四国八十八か所の真似なのだろう。ということは中に御鎮座されるはお地蔵さんではなく弘法大師様か。

更に進むと於玉稲荷神社がある。

写真7: 於玉稲荷神社

於玉稲荷神社.JPG

神社のホームページから、由緒・・・

当地は「小松の里」と呼ばれ、かつては徳川将軍の鷹狩の地でした。古地図で見ると、この地に「おたまいなり」の所在が記されていますが、古くは御分社でありました。当、於玉稲荷神社はこのゆかりの地に、安政2年(1855年)の大震火災で焼失した神田お玉が池の社を、明治4年に御本社として遷宮したものです。

神田時代のお玉が池の稲荷神社の沿革については「江戸名所図会」神田之部所引の「於玉稲荷大神の由来」にも述べられているように、長禄元年 太田道灌の崇敬をはじめ、寛正元年 足利将軍義政公の祈願、さらには文禄4年 伊達政宗公の参詣などが記されております。

ということで江戸名所図会を探してみた。

江戸名所図会_於玉ヶ池の古事.jpg

ここで小松川に戻る。すると本一色天祖神社がある。

写真8: 本一色天祖神社

本一色天祖神社.JPG

本一色天祖神社は、本一色村内の神社を合祀したもの。合祀前の三社明神社は、江戸時代には、本一色村の鎮守であった。

三社明神社。村ノ鎮守トス。神明香取鹿島ヲ合祀ス。
天王社。
神明社。己上三社円勝寺。
鹿島社。
天神社。己上二社光照寺持。

先に進む。川はこの辺りでお終いだが、元は川であろう道を行く。JR総武本線が最も近づく辺りに天祖神社がある。

写真9: 天祖神社

天祖神社.JPG

「新編武蔵国風土記稿」下小松村の条に「五社明神社 村ノ鎮守トス。祭神詳ならず。照明寺持」とあり、下小松村の鎮守であった。古くは五社明神と呼んでいた。当社は葛西御厨時代に伊勢の皇大神宮を勧請し、下小松村の鎮守として奉祀したものと推定される。社殿はいくたびか改築され、文久3年(1863年)の本殿と大正4年の幣殿・拝殿が近年まで存し、昭和29年1月、境内が国鉄総武線の拡幅用地となって現地に移った後も使用されたが、昭和53年現社殿が造営された。

そのまま進む。環七を渡ると水神社稲荷神社がある。

写真10: 水神社稲荷神社

水神社稲荷神社.JPG

そのまま突き進み新中川で道は途絶える。新中川にぶつかる一つ手前の道を右に折れ真っ直ぐ行くと、興之宮神社がある。

写真11: 興之宮神社

興之宮神社.JPG

興之宮天祖神社は、寛永7年(1630年)10月創建と伝えられ、興之宮村では、当社を東の宮、本一色天祖神社を西の宮と称していた。興宮村の鎮守。

新編武蔵風土記稿による興之宮天祖神社の由緒

三社明神社。
神明香取鹿嶋ノ三神ヲ安置ス。
村ノ鎮守也。本一色村光照寺持

境内掲示による興之宮天祖神社の由緒

興宮神社の祭神は天照皇大神を主体とし香取鹿島両神宮のニ体が合祀されている。創立年代は不詳であるが鎌倉時代の関東の豪族葛西三郎清重の家臣一式某なる者の領地であったと伝えられる。徳川幕府初期即ち寛永7年10月建設と古書にある。当興宮神社を東の宮、本一色天祖神社を西の宮と呼び両神社の因縁深き事は今に至るも尚継続している。江戸時代末期の文献には幕府直轄の代官支配下の幕府直納の米の生産地であった地名は武蔵国東葛西領興之宮村と呼ばれた。村の面積は22町歩、戸数は十数戸人口百十数人と言う寂しい農閑村部落であった。神社の境内は約4反分、別に田畑3反余の財産があったがこれは戦後農地法に依り耕作者の所有となった。

来た道を戻る。新小岩香取神社まで戻ったら、新小岩香取神社から第二松江小までの旧道で戻る。途中、東福院がある。

写真12: 東福院

東福院.JPG

真言宗豊山派、施薬山医王寺と号し、をまつっています。寛永8年(1631年)、大和の人秀円僧都が大西氏を従え東国巡錫のとき西小松川に至り、宇田川、関口、宮の各氏に迎えられて建立したのがはじまりと伝えられている。

新編武蔵風土記稿では、

新義真言宗上小松村正福寺末施薬山ト号ス。
本尊薬師並ニ二菩薩ヲ安ス。ともに春日ノ作秘佛ナリ。

と、ある。

山門前には江戸川区文化財の、享保12年(1727年)の銘がある青面金剛像庚申塔がある。

写真13: 東福院 青面金剛像庚申塔

東福院 青面金剛像庚申塔.JPG

これで小松川を巡る旅はお終い。昔は栄えていたことを思わせる旅であった。
posted by Yogi at 10:54| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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