2011年08月22日

江戸川区(葛飾)の歴史@縄文時代

名所江戸百景シリーズも、桜の時期も過ぎ、紅葉の時期まで間が開く。そこで、新たなテーマを検討してみた。道、川(跡)、町・村と、一通り回ったのでネタも尽きてきた。色々と検討した結果、原点に返り、我が街・江戸川区の歴史を遡ってみたいと思う。

新シリーズ、『江戸川区(葛飾)の歴史』のスタートである。

尚、御存知の方も多いかと思うが、江戸川区は、その昔、『下総国葛飾郡』であった。だから、(葛飾)と、している。

さて、縄文時代、葛飾は海だった。縄文海進と呼ばれる海水面の上昇、概ね3〜5m、高いところでは10数mも、現在の海水面より高かったという。それは、貝塚が教えてくれる。

[Wiki、『縄文時代の遺跡一覧』より、貝塚のみピックアップした地図]


より大きな地図で 縄文貝塚地図 を表示

なんと!、最も奥は、渡良瀬遊水地の辺りまで、海だったのである。

何故、渡良瀬遊水池にまで海が入り込んだのか?

理由は簡単である。海抜が低いからだ。地形図を見てみよう。

[東京低地地形図 全体図]

地形図_東京低地全体図.JPG

[渡良瀬遊水池付近]

地形図_渡良瀬遊水地付近.JPG

[江戸川区付近]

地形図_江戸川区付近.JPG

[市川市 貝塚付近]

地形図_市川市貝塚.JPG

最も低いのは、我が街、江戸川区、葛飾区。渡良瀬遊水池の辺りも、海抜10数mだ。又、貝塚も、幾分海抜のある台地上に多くプロットされている。

と、いうことは、葛飾の歴史は弥生時代から・・・?!と、決めつけるのは早計だ。縄文海進は、ピークが約6,000年前。縄文時代は約12,000年前〜BC3世紀だから、12,000年前〜6,000年前は、陸地だったのだ。その証拠に、葛飾区と江戸川区には、ちょうど一つずつ、縄文時代の遺跡が登録されている。

・葛飾区

 遺跡番号: 15
 遺跡名: 柴又河川敷
 所在地: 柴又五・六丁目
 遺跡の概要: 低地微高地 包蔵地 [不]溝 土坑
 時代: [縄][弥][古][奈][平][中][近]

・江戸川区

 遺跡番号: 2
 遺跡名: (無し)
 所在地: 南小岩五丁目新中川放水路敷
 遺跡の概要: 低地 包蔵地
 時代: [縄早]

それでは早速、自転車で現場視察である・・・

が、保存されている、せめて、何か痕跡が分かるような遺跡は殆ど無いのが現実だ。今回で言えば、[江戸川区 遺跡番号2]は、何も残っていない。

と、いうことで、葛飾区の柴又河川敷遺跡に現場視察である。

[柴又河川敷遺跡]

cameraroll-1312086807.876630.jpeg

ここも、何も無い…のではないのだ。ここは、縄文時代の痕跡が、今尚、肉眼でハッキリと確認出来る非常に貴重な場所なのだ。

[GoogleMapsによる空撮写真]


大きな地図で見る

写真の川は江戸川だが、透き通って岩盤が見えると思う。何と! これは、縄文海進により削られ残った下総台地の岩盤なのである。

この岩盤は、大潮の干潮と、江戸川水門の開門が重なった時に確認できる。現場視察時は、大潮の干潮だったが、数日続いた大雨の影響で、水量が多く、岩盤の露出は無かった。が、増水により流量と流速が早くなった江戸川の流れは、この岩盤に当たり、ここだけ、流れが逆流し、上流からの流れとぶつかって、渦を巻いていた。

縄文早期、まだ海進する前、約6,000年以上前に、葛飾には、縄文人が住んでいた。その後、縄文海進により、数千年、歴史が途切れる。次、葛飾で人々の営みが再開されるのは弥生時代だ。

次回は、弥生時代。

以上
posted by Yogi at 23:00| 東京 ☁| Comment(2) | 町・村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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