2011年06月17日

149. 名所江戸百景80 赤坂桐畑・赤坂桐畑雨中夕けい

名所江戸百景シリーズの第80弾、今回は、赤坂桐畑と赤坂桐畑雨中夕けいの2景である。

赤坂桐畑

赤坂桐畑.jpg

赤坂桐畑雨中夕けい

赤坂桐畑雨中夕けい.jpg

両方共、溜池の西岸に立ち、東側、溜池を望んだ絵である。

桐畑の方は南の方、虎御門方面を、雨中夕けいの方は北の方、赤坂御門方面を望んでいる。

桐畑の方は、広重得意のアップで桐を据えた構図で、溜池の青い水面と画面左側の山王の山の緑が美しい。雨中夕けいの方は、二代広重の作品だが、鳥瞰構図で、赤坂御門に向かう坂道と奥には紀伊殿上屋敷内の森が見える。

松平美濃守下屋敷と溜池の間の敷地、ここには、溜池の土手の地盤強化の為、桐が植えられ、桐畑と呼ばれた。

古くから桐は鳳凰の止まる木として神聖視されており、日本でも嵯峨天皇の頃から「菊の御紋」に次ぐ高貴な紋章とされた。また中世以降は武家が望んだ家紋としても有名で、豊臣秀吉などもこれを天皇から賜っている。この紋章、そう言えば、「江」で見た気がする。以降、五七桐は「政権担当者の紋章」という認識が定着することになった。

関ヶ原の戦いで徳川側についた黒田氏は、戦い後、52万石を与られ、末は、松平姓を冠することを許され、福岡筑前藩主 松平美濃守となった。だから、桐だったのか。

安政5年(1858年)の地図

赤坂桐畑・赤坂桐畑雨中夕けい.JPG

今はもう埋め立てられ無い溜池、溜池の西側には松平美濃守下屋敷、溜池と下屋敷の間に、『桐畑ト云』の文字が見える。

現在の地図


より大きな地図で 赤坂桐畑・雨中夕けい を表示

ブルーで溜池跡を囲ってみた。溜池の南側のブルーラインは水路。パープルラインは松平美濃守下屋敷。青山通り、都道413号等、良く見ると、殆ど道はそのまま残っている。

そこでの写真

赤坂桐畑

cameraroll-1308135176.930025.jpeg赤坂桐畑.jpg

街路樹を桐に見立てて。ここ、写真には上手く表現できていないが、外堀通りが奥に行くに従い左にカーブしている様子、山王さんの山等、非常に雰囲気が残っている。外堀通りを溜池と思って今一度よくよく見ていただきたい。

赤坂桐畑雨中夕けい

cameraroll-1308135174.020089.jpeg赤坂桐畑雨中夕けい.jpg

本当にここは年中工事をやってて見苦しい。が、ここも雰囲気は残っている。びっくりするのが、写真では小さくなってしまいわかりづらいが、赤坂御門に向かう坂道の奥にある森だ。今も、大久保公哀悼碑がある公園の森が同じ場所に見えている。

最後に、山王日枝神社の参道鳥居

cameraroll-1308135170.165945.jpeg

以上
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148. 名所江戸百景79 堀切の花菖蒲

名所江戸百景シリーズの第79弾、今回は、堀切の花菖蒲である。

堀切の花菖蒲.jpg

この絵は、堀切菖蒲園の一面に咲く菖蒲を描いたものである。

堀切菖蒲園の始まりには二説ある。

一つは、室町時代、堀切村の地頭久保寺胤夫が、家臣の宮田将監に命じ、陸奥国郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せて栽培を始めたというもの。

もう一つは、江戸時代、百姓の小高伊左衛門が、趣味で各地の花菖蒲を集めて庭で栽培したというものだ。

江戸時代、家康、秀忠、家光の三代将軍の花癖が元で、多くの花が江戸に集まり、江戸は、世界に類を見ない園芸都市に発達した。広重も多くの花を描いている。加えて、広い敷地に庭園を持つ大名屋敷で埋め尽くされていたのだから、本当に美しかっただろう。

さて、花菖蒲の話に戻すと、江戸っ子は、「受け咲き」と言われる、花弁が垂れずに水平に、時にはやや抱え咲きに近くなるほどの花形を好んだ。この広重の絵もそうなっている。細かい。

明治13年(1880年)の地図

堀切の花菖蒲.JPG

堀切は江戸ではないので切絵図ではカバーされていない。

左の大河は隅田川・鐘ヶ淵、綾瀬川が右下に走る。その北側に堀切村の文字が見える。

現在の地図


より大きな地図で 堀切の花菖蒲 を表示

荒川放水路が新たに加わったが、隅田川と綾瀬川は残っている。

そこでの写真

cameraroll-1307836776.134529.jpeg堀切の花菖蒲.jpg

パーフェクト!

以上
posted by Yogi at 22:10| 東京 ☁| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月11日

147. 名所江戸百景78 王子稲荷の社

名所江戸百景シリーズの第77弾、今回は、王子稲荷の社である。

王子稲荷の社.jpg

この絵は、王子稲荷の社左後方から参道入口方面、北東を望んだものである。筑波山が見えている。

王子稲荷は、創建年こそ不明だが、源頼義が陸奥守として赴任する際、ここ王子稲荷に戦勝を祈願したというから、永承6年(1051年)には既に在ったことになる。尚、単なる赴任に戦勝祈願は要らない。頼義は、後に前九年の役と呼ばれる戦の為に赴任したのだ。

この時、頼義は、ここ王子稲荷を関東稲荷総司とした。この時の関東とは東国33国を指す。が、江戸に入り、寛政の改革で行政干渉があり、関八州(関東)の総社の位置付けに格下げされてしまった。

それにしても、ここ王子は源氏と所縁がある土地だ。

約100年後には、頼朝が松橋(金剛寺周辺)を訪れている。

頼義は陸奥守に任じられた時、相模守だった。頼朝は『王子瀧の川』で既述のようにここ王子から鎌倉に向かった。

ふと、疑問に思う。鎌倉や相模の国から奥州に向かうなら、東海道を日本橋を経由して、浅草橋、千住を抜ける奥州道中ではないのか。何故、王子なのか・・・

今一度考えると、奥州道中は江戸時代の街道。頼義や頼朝は平安後期、鎌倉の時代である。
『いざ鎌倉』で、御家人たちが有事に鎌倉に向かった道、鎌倉街道は、多摩川からだと、

厚木街道→(二子玉川)→玉川通り→R246→(駒沢)→(三軒茶屋)→(渋谷)→明治通り→(原宿)→(千駄ヶ谷)→(新宿)→(東池袋)→(西巣鴨)→(紅葉橋)→(東十条)→(赤羽)→北本通り→(川口)

と、いうルートである。川口から宇都宮までは江戸時代の御成道と同じ、宇都宮から陸奥へは奥州道中と重なる。だから、ここ王子だったのだ。

では何故鎌倉街道は東海道と同じルートではなかったのか。

鎌倉街道と東海道を地形図に乗せた地図

鎌倉街道と東海道.JPG

もちろん南を走っているのが東海道。これを見て分かるように、埋立てが全く行われていなかった鎌倉時代は、東海道は海、あるいは湿地帯だったと思われる。

話を元に戻して、王子稲荷周辺の安政5年(1858年)の地図

王子稲荷の社.JPG

現在の地図


より大きな地図で 王子稲荷の社 を表示

そこでの写真

cameraroll-1307162078.795400.jpeg王子稲荷の社.jpg

パーフェクト!

以上
posted by Yogi at 11:44| 東京 ☔| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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