2011年04月28日

139. 名所江戸百景70 高輪うしまち

名所江戸百景シリーズの第70弾、今回は、高輪うしまちである。

高輪うしまち.jpg

海は品川湾、虹とお台場も見えている。手前には、牛車の車輪がクローズアップで、広重お得意の構図である。

江戸時代、牛車は京都・駿府・江戸・仙台・箱館などの限定した都市でしか使用されておらず、馬車の営業は明治時代に入ってから。人力による荷車輸送も全国的な展開はなく、西欧社会に比べて車両交通の未発達は江戸時代の特色になっている。江戸における牛車利用は、寛永11年(1634年)、増上寺安国殿を普請するにあたり京都から牛持ち人足を呼び、木材や石材の運搬にあたらせたことに始まる。この牛は江戸城の拡張にも用いられ、これらの工事が完了すると、牛持ち人足は江戸に定住し、車町(牛町)が作られていった。それ以来、江戸では牛車による荷物の運搬が行われ、牛は山王祭や神田祭にも使われるようになった。

安政5年(1858年)の地図

高輪うしまち.JPG

東海道は海沿いだった。『車町』の文字が見えるが、広重はここから東を望んだのである。ここ高輪のランドマーク、泉岳寺、高輪大木戸も確認できる。

現在の地図


より大きな地図で 高輪うしまち を表示

ブルーポイントで泉岳寺、高輪大木戸をポイントした。赤ポイントは広重推定立ち位置、赤ラインは推定視線。しかし、海は遥か彼方だ。

そこでの写真

cameraroll-1303984497.895348.jpeg高輪うしまち.jpg

悲し過ぎる。

悲しいので海まで歩くことに。

途中、高輪名物高さ制限1.5mのトンネル

cameraroll-1303984494.430219.jpeg

歩いて20分、ようやく到着。

cameraroll-1303984490.571800.jpeg高輪うしまち.jpg

お台場が見える。

戻り、高輪大木戸

cameraroll-1303984500.753177.jpeg

最後に、他の絵

江戸名所図会 高輪牛町

高輪牛町.jpg

東都三十六景 高輪海岸

東都三十六景 高輪海岸.jpg

惺々暁斎 東海道 高縄牛ご屋

東海道 高縄牛ご屋.jpg

以上
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2011年04月27日

138. 名所江戸百景69 綾瀬川鐘ヶ淵

名所江戸百景シリーズの第69弾、今回は、綾瀬川鐘ヶ淵である。

綾瀬川鐘ヶ淵.jpg

この絵は、隅田川西岸から、綾瀬川合流口を望んだ絵である。手前にアップで合歓の木を配置している、広重お得意の構図である。隅田川には筏が描かれている。ここは綾瀬川が合流することもあり、昔の舟人からは航路の難所として恐れられ、とくにその名が高くなった所。いざ、向かわん、と、いったところか。

筏に乗る男の装束、腕と足を捲り上げ夏を思わせる。はねたのわたし弁天の社での男の足と同じである。又、合歓の木は夏の季語であり、よって、この絵は夏の絵である。

『鐘ヶ淵』の地名は、隅田川がこの辺で直角に曲り、これが大工の使う指矩に似ていることから名付けられたと言われる。又、隅田川西岸、石浜にあった普門院が亀戸村に移転する際、その梵鐘が川に落ち、今にいたるまで引き揚げられずに沈んでいるという伝説から名付けられたとも言われている。

安政5年(1858年)の地図

綾瀬川鐘ヶ淵.JPG

隅田川が見事に直角に折れ曲がっている。その曲がり口に綾瀬川が合流している。その辺りに『鐘ヶ淵』の文字も確認できる。又、左には奥州道も確認できる。

現在の地図


より大きな地図で 綾瀬川鐘か淵 を表示

隅田川の様子はそのままだ。綾瀬川と隅田川の間には荒川が出来ている。赤ポイントが広重推定立ち位置、赤ラインは推定視線。

そこでの写真

cameraroll-1303650246.874533.jpeg綾瀬川鐘ヶ淵.jpg

合歓の木は無いが、雰囲気は出ているか。

以上
posted by Yogi at 07:21| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月25日

137. 名所江戸百景68 川口のわたし善光寺

名所江戸百景シリーズの第68弾、今回は、川口のわたし善光寺である。

川口のわたし善光寺.jpg

画面中央を流れるは荒川(隅田川)、6艘の筏と1艘の人を乗せた渡し船が見える。画面右上に見えるのは川口の善光寺である。善光寺の手前と川のこちら側には渡しに付随する建物が見える。江戸の人々の躍動感が感じられる絵である。

善光寺は、建久6年(1195年)定尊の開創と伝えられている。定尊は6歳の時出家し常に法華経及び弥陀の名号を唱念し信州善光寺如来の模鋳を発願、建久6年に完成し、これを奉持して諸国を巡化中、この地に一宇を建立、如来像を安置した。これが善光寺の起源である。かつて川口寺と言っていたが、信州善光寺に似ているところから、善光寺と呼ばれるようになったていうが定かではない。中興は一容、本尊一光三尊阿弥陀如来は、一容の作であると伝えられている。

この川口の渡しは、日光御成道(岩槻道)の一部、日光御成道は、徳川歴代将軍が日光東照宮への参詣に使った道。家康の忌日である四月十七日に執り行われる祭礼には、将軍自らが参詣するか、大名や高家を名代として参詣させた。江戸日本橋を起点に、本郷追分で中山道と分岐し、岩淵宿、川口宿、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を経て、幸手宿の南方で五街道の一つ日光道中と合流する。

江戸〜岩槻間の道筋は、岩槻藩の参勤交代の順路となっているところから岩槻街道とも呼ばれていた。

千住〜幸手間の日光街道を利用しなかったのは、御成街道にある岩槻城を宿舎とした為。

荒川は通常、舟渡しだったが、将軍日光社参の際は幅三間、長さ六五間の板橋が架橋された。

明治13年の地図

川口のわたし善光寺.JPG

地図中央下、日本の道があるが、東側が岩槻道、もう一方の道とT字で交差し北に向かう。川は荒川、川の上、点線で表されているのが川口の渡しである。荒川の向こうには川口町の文字が見える。

現在の地図


より大きな地図で 川口のわたし善光寺 を表示

赤ポイントで善光寺をポイントした。ブルーポイントが広重推定立ち位置、ブルーラインは推定視線。

ご覧頂いてお分かりの通り、当時の道がほぼそのまま残っている。

そこでの写真

cameraroll-1303650251.664550.jpeg川口のわたし善光寺.jpg

画面右上、高いビルの手前に青銅色の屋根が見える。それが善光寺だ。

流石にここまで来ると、又、川近くなので、雰囲気は残っている。

最後にその他の絵

暁斎_川口善光寺

暁斎_川口善光寺.jpg

江戸名所図会 川口 善光寺

川口 善光寺.jpg

以上
posted by Yogi at 22:07| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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