2011年02月11日

107. 名所江戸百景38 市中繁栄七夕祭

名所江戸百景シリーズ第38弾、今回は、市中繁栄七夕祭である。

市中繁栄七夕祭.jpg

この絵は、広重の自宅二階から、西を望んだ絵と言われている。富士山が見えているし、画面やや下、やや右側に見える櫓は、馬場先御門の櫓だということだ。

馬場先御門の手前には、広重が生まれた定火消がある。今住んでいるところから、子供の頃住んでいた所を見た、そういう絵なのである。なかなかドラマティックだ。

安政5年(1858年)の地図

市中繁栄七夕祭.JPG

広重は大鋸町に住んでいたが、再婚後、常盤丁に引っ越した。どちらの家に住んでいた時の絵なのか。馬場先御門から真っ直ぐ東へ行くと常盤丁に着く。常盤丁の方だと思われる。

現在の地図


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ブルー・ポイント、左から馬場先御門、鍛冶橋御門。そのまま右に行くと黒いラインで囲ったところが常盤丁跡、赤いポイントが広重の立ち位置推定地、その上のブルー・ラインの囲みは大鋸町。

そこでの写真

IMG_0384.JPG市中繁栄七夕祭.jpg

以上
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106. 名所江戸百景37 両国花火

名所江戸百景シリーズの第37弾、今回は、両国花火である。

両国花火.jpg

この絵は、武蔵の国の側からと下総の国の側から、どちらの説もあるらしい。が、私は武蔵の国の側からの絵と推定する。理由は2つある。一つは向こう岸に街の明かりが一つも見えないということだ。東岸からなら、屋敷や町が隅田川沿いにあり、神田川河口部の料亭など、間違いなく賑わっていたはずである。一方、西岸からだと、ちょうど安宅濱に当たり、御船蔵があった所。夜はだれも務めていないから街明かりが無い。2つ目の理由は、広重の足跡である。回向院→元柳橋→両国広小路と来て、北を望んで浅草川大川端宮戸川、南を望んで両国花火を描いた。

安政5年(1858年)の地図

両国花火.JPG

両国橋北側西岸には松平伊賀の屋敷や神田川柳橋の料亭があった柳原町や平右衛門町が見える。南側東岸には御船蔵が見える。

現在の地図


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ブルー・ポイントが広重の推定立ち位置、赤いラインが浅草川大川端宮戸川の視線、グリーン・ラインが両国花火の視線、利根川ばらばら松・堀江ねこざねと同じく、同じ立ち位置からの省エネ画法と推定する。

そこでの写真

IMG_0275.JPG両国花火.jpg

撮った時間は朝の7時過ぎ。南東に向かっての写真なので逆光。露光の調整をしたが、明るくし過ぎたか。

さて、この両国の花火は他にも幾つも描かれている。

まずは江戸名所図会 両国橋

両国橋.gif

其の二

両国橋 其の二.gif

北斎 江都両国橋夕涼花火之図

北斎_江都両国橋夕涼花火之図.gif

これは両国広小路からの視線だ。

国虎 江戸両国橋夕涼大花火之図

歌川国虎_江戸両国橋夕涼大花火之図.jpg

龍馬伝オープニングで御馴染、橋本貞秀 東都両国ばし夏景色。これ、すごい絵です。

橋本貞秀_東都両国ばし夏景色.JPG

広重 江戸名所 両国花火

江戸名所 両国花火.jpg

歌川豊春 両国花火図

歌川豊春_両国花火図.jpeg

歌川豊国 東都両国橋川開き繁栄之図

歌川豊国_東都両国橋川開き繁栄之図.jpg

まだあると思うが切りが無いのでこの辺で。それにしても、賑やかだったんだ、両国は。

以上
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105. 名所江戸百景36 浅草川大川端宮戸川

名所江戸百景シリーズ第36弾、今回は、浅草川大川端宮戸川である。

浅草川大川端宮戸川.jpg

この絵は隅田川を描いた絵であるが、奥に筑波山が見えているので北を望んだ絵。左から流れ込んでいるのは神田川である。

浅草川、大川、宮戸川と3つの川を描いているように思われるが、これら3つとも隅田川の名称だ。

安政5年(1858年)の地図

両国橋大川ばた.JPG

神田川の隅田川合流地点の南側、両国広小路から北を望んだのだろう。回向院から両国回向院元柳橋を描き、両国橋を渡り元柳橋に来て両国橋大川ばたを描き、両国橋に戻り浅草川大川端宮戸川を描いた。

現在の地図


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そこでの写真

IMG_0434.JPG浅草川大川端宮戸川.jpg

筑波山は見えないが、雰囲気は残っている。スカイツリーも。

以上
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104. 名所江戸百景35 両国橋大川ばた

名所江戸百景シリーズの第35弾、今回は、両国橋大川ばたである。

両国橋大川ばた.jpg

手前に両国広小路の賑わい、中央に両国橋、奥に藤堂和泉などの大名屋敷、御竹蔵の堀に架かる橋などを捕えている。

両国橋は千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である。西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから両国橋と呼ばれるようになった。

江戸時代、川に橋はめったに架けられなかった。防衛の目的である。しかし、明暦の大火で、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が死傷したのを受け、両国橋が架けられることとなった。橋が架けられたことで、隅田川の東側、両国、深川地区が発展し、そこまでもが『江戸』となっていった。その後、『江戸』はどんどん東に広がり、最後は、江戸川までが江戸になった。今も江戸川までが東京都である。

安政5年(1858年)の地図

両国橋大川ばた.JPG

両国回向院元柳橋でも書いたが、両国橋は今より少し下流にあった。回向院山門から真っ直ぐのところである。武蔵の国の側には両国広小路、両国広小路の南端には薬研掘りが見える。ちょうどこの辺りから両国橋を中央に捕え、奥の屋敷群を見ていたのだろう。両国回向院で元柳橋を描き、、両国橋を渡り元柳橋に来て両国橋大川ばたを描いた。利根川ばらばら松・堀江ねこざねと同じパターンである。

現在の地図


より大きな地図で 両国橋大川ばた を表示

そこでの写真

IMG_0453.JPG両国橋大川ばた.jpg

江戸時代はここに橋があった。

これではあまりに味気ないので現在の両国橋に合わせて撮った写真

IMG_0455.JPG両国橋大川ばた.jpg

この辺りが限界・・・スカリツリーとのコラボだからまぁ良いか。

しかし、東京の平日の朝はトラックが多い。

藝齋芳富、両国橋祇園会之図

藝齋芳富_両国橋祇園会之図.jpg

以上
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103. 名所江戸百景34 びくにはし雪中

名所江戸百景シリーズの第34弾、今回は、びくにはし雪中である。

びくにはし雪中.jpg

京橋川と外堀との合流地点、京橋川に架かる橋、それが比丘尼橋である。絵中央に描かれている。奥に見える櫓は数寄屋橋御門の櫓、だから、比丘尼橋北側から南を望んだ絵である。

この絵は、何といっても『山鯨』である。山鯨とは猪を始めとした獣肉のこと。江戸時代は獣肉食は禁止されていたはずだが、外堀の目の前でこうも堂々と店を開いていたということは、幕末の頃はその規則も緩かったことが分かる。

猪と言えば、東京東部に住む我々にとってまず頭に浮かぶのは、両国橋の両国側にある『もゝんじや』だ。いつも猪がぶら下がっている。1718年(享保3年)創業とのこと。

以前住んでいた横浜で良く通っていたバー、そこのマスターが元ホテルマンで、ホテルマン時代に親交のあった肉屋さんから、毎年、晩秋の頃、冬眠前の鹿肉を仕入れ、カルパッチョで振舞っていた。冬眠前の鹿肉はとても旨かった。もゝんじやにも、晩秋の頃に訪れたい。

安政5年(1858年)の地図

びくにはし雪中.JPG

鍛冶橋御門の文字の右に『尼丘ハシ』の文字が確認できる。視点を南に転ずると数寄屋橋御門がある。

現在の地図


より大きな地図で びくにはし雪中 を表示

ブルー・ポイントが広重の推定立ち位置、赤いラインが推定視線向きである。

そこでの写真

IMG_0377.JPGびくにはし雪中.jpg

以上
posted by Yogi at 11:43| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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