2011年02月05日

97. 名所江戸百景28 日本橋雪晴

名所江戸百景シリーズの第28弾、今回は、日本橋雪晴である。

日本橋雪晴.jpg

この絵は、富士山が見ているから、日本橋の東側から西側を俯瞰したものである。日本橋の向こうに見えるのは、一石橋だ。手前は長濱丁。

安政5年(1858年)の地図

日本橋雪晴.JPG

この地図を見ると、ちょうど、長濱丁の辺りの日本橋川北岸からの構図であろう。

現在の地図


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ブルー・ポイントが広重の推定立ち位置、赤いラインが視点向きなのだが、こうしてみると一石橋は視界に入らないか。

ブルー・ポイントから撮った写真

IMG_0303.JPG日本橋雪晴.jpg

あまり美しい写真ではない。日本橋の手前には工事の船舶があり、手前の木も邪魔だ。敷地の金網も美しくない。が、それらしい場所で且つ写真が撮れる場所はここしか無かった。鎧の渡し小網町でも登場した遊覧船が通ったことが唯一の救いか。

もちろん、江戸名所図会にも描かれていた。

日本橋.gif

広重は江戸名所図絵とほぼ同じ視点で描いていた。江戸名所図会の方が写実的なので、一石橋は描かれていないということか。

広重のその他の作品

広重の東海道五十三次

東海道五十三次 日本橋 朝の景.jpg

銀世界十二景 日本橋

銀世界十二景 日本橋.jpg

江都名所 日本橋 雪の朝

江都名所 日本橋 雪の朝.jpg

東都名所 日本橋の白雨

東都名所 日本橋の白雨.jpg

それにしても相当描いている。全ての絵で、当時、相当な賑わいを見せていたことが分かる。今も賑わっているが、当時は本当に江戸一番の繁華街だったのだろう。

以上
posted by Yogi at 22:29| Comment(2) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

96. 名所江戸百景27 鎧の渡し小網町

名所江戸百景シリーズの第二十七弾、今回は、鎧の渡し小網町である。

鎧の渡し小網町.jpg

安政5年(1858年)の地図

鎧の渡し小網町.JPG

真ん中に『鎧ノワタシ』の文字が見えると思う。広重は、日本橋川の西側の鎧の渡しの渡し場から、対岸の小網町の白壁の蔵を描いたのである。

現在の地図


より大きな地図で 鎧の渡し小網町 を表示

今は鎧橋が架かっている。ブルーポイントが広重の立ち位置、赤いラインが視点向き、黒い線は蔵跡推定地である。

現在の写真

IMG_0293.JPG鎧の渡し小網町.jpg

名所江戸百景を知ってか知らぬか、今そこに建つビルも、いずれにしても白い壁にしてくれている。丁度遊覧船が通ってくれた。暗くて分かりづらいかもしれないが、画面奥に後ろ姿を見せている。

江戸名所図会にも描かれている。

鎧の渡し.gif

やはり、この白壁が美しかったのだろう。

しかし、『鎧』とは、何故。なんでも、この辺りは昔大きな川があり、平安時代の永承年間(1046〜53)に、源頼義が奥州平定の途中、ここで暴風・逆浪に遭い、その船が沈みそうになったので、重い鎧を海中に投じて龍神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだといわれているとのこと。

以上
posted by Yogi at 12:53| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

95. 名所江戸百景26 鉄砲洲稲荷橋湊神社

名所江戸百景シリーズの第二十六弾、今回は、鉄砲洲稲荷橋湊神社である。

鉄砲洲稲荷橋湊神社.jpg

この絵は、亀島川の東岸から、向こう岸で合流している八丁堀、稲荷橋、鉄砲洲稲荷神社を描いたものだ。

鐵砲洲稲荷神社の「生成太神(いなりのおおかみ)」は、1554年に始まる足利義輝の治世に形成された京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)です。それよりさかのぼる841年、平安時代初期にこの地の住民がうち続く凶作に教えられるところがあって、自らの産土の国魂神を祀り、万有の命を生かし成したまえる大御親神生成の大神として感謝し、日々の御守護を祈願したものです。その後、埋立てが進み現在の京橋あたりに御遷座になり、さらに1520年代末に氏子崇敬者の願いによって、新しい海岸であった今の新京橋へ遷座し八町堀稲荷神社と称しました。室町時代の末期のことであります。徳川幕府が開かれいよいよ埋立てが進み、寛永元年1624年、これまた氏子崇敬者の願いによってこの鐵砲洲に生成太神を御遷座申し上げ、それまであった八幡神社を摂社として今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築きました。たび重なる海側への御遷座は、そもそも御鎮座の地に湊があったからです。江戸時代に至っては、米・塩・酒・薪・炭を初めほとんどの消費物資は鐵砲洲の湊へ入ってきたため、鐵砲洲生成太神の名は船乗人の海上守護の神として全国に広まり、今なお『冬至開運祈願祭』に授与する「金銀富貴」の神礼は日本中の人々から拝戴されています。〜神社サイトより〜

安政5年(1858年)の地図

鉄砲洲稲荷橋湊神社.JPG

真ん中を東西に流れているのが八丁堀、東で合流しているのが亀島川、合流地点に、『イナリ橋』、『イナリ』の文字が見えると思う。稲荷橋の直ぐ近くにある亀島川に架かる橋(地図上名は無い)を渡り東湊町一丁メに立ち、描いたのだろう。

現在の地図


より大きな地図で 鉄砲洲稲荷橋湊神社 を表示

亀島川は残っているが、八丁堀は埋め立てられてもう無い。ブルーの線で堀跡を表した。赤いポイントが広重の推定立ち位置、赤いラインが推定視点である。

地図を見てもうお分かりの通り、稲荷神社は少し南に移動している。

鉄砲洲稲荷神社

IMG_0287.JPG

稲荷橋があった場所には、親柱が残っていた。

稲荷橋 親柱

IMG_0289.JPG

ビルがあり広重と同じ立ち位置には立てなかったので、出来る限り近いところということで、グリーンポイントで撮った写真

IMG_0288.JPG鉄砲洲稲荷橋湊神社.jpg

江戸名所図会にも描かれていた。

湊稲荷社.jpg

広重は、江戸名所図会とは逆向きから描いたことが分かる。

以上
posted by Yogi at 10:31| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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