2011年01月14日

85. 名所江戸百景N 利根川ばらばらまつ、O 堀江ねこざね

江戸名所百景シリーズの第十五弾、今回は、利根川ばらばらまつである。更に、一気に、第十六弾の堀江ねこざねも紹介したい。

利根川ばらばらまつ

利根川ばらばら松.jpg

利根川ばらばらまつは、題名に地名が記されていない唯一の絵であるそうだ。『利根川』と、あるものの、流程が長い利根川のどこなのか、はっきりしない。調べると、妙見島であると推定されているらしい。

そこで、妙見島であるとして、色々と検証、推定してみたい。

まず、現代の妙見島の地図


より大きな地図で 利根川ばらばらまつ&堀江ねこざね を表示

南北に流れている川が江戸川。広重の時は利根川と呼ばれていた。そこにある島が妙見島だ。妙見島の少し上流には、家康が開いた新川が見える。

妙見島の西側に長島川の跡を描いてみた。上流から流れてきた江戸川の流れが、そのまま素直に流れたら、長島川の流程を流れるのではないか。あるいは、洪水の時などは。

その少し下流、境川を見て欲しい。長島川と同じく、江戸川の流れは、境川にそのまま繋がっている。

地理的には、江戸川という大河があり、島があり、新川、長島川と境川がある風光明媚なところ。それが妙見島だ。

歴史的には、最古の記録は南北朝時代の1362年(貞治元年)に、島に妙見堂が建立されたという記録がある。この地を治めていた千葉氏が建てたのであろう。

長島川流域の長島は、葛西地域の中で最も歴史が古い地区である。葛西御厨の一部であり、葛西清重が治めていた。千葉氏が治めたのは葛西氏衰退の後である。又、この地域は河川交通の要所でもあった。長島には長島湊があり、葛西御厨や下総の国の国府の外港の1つとして栄えた。南北朝時代の1372年(文中元年/応安5年)には、香取神宮の河関が設けられた。戦国時代には長島高城があったという説がある。清光寺がその跡と言われている。1559年(永禄2年)の長島は後北条氏の重臣、太田康資の領地の1つだった。近隣では数度に渡って国府台合戦が行われた。

長島の少し北には新川が江戸川と接続している。その少し北には古川も。この古川、新川は、行徳の塩を運ぶソルト・ロードとして栄え、行徳の塩が衰退後は、成田山参詣の川の道として栄えた。

さて、妙見島の辺り、ということは分かったが、具体的にどこなのか。妙見島は描かれていない。ということはそれより上流だ。と、なると、もうここまで来てしまう。江戸川と新川の接続地点だ。が、これが意外に雰囲気が残っていた。改めて絵を見ると、左から船が入ってきている。ということは、やはりここは新川との接続点なのではないか。おそらくここだと思う。現在の地図の赤ポイントでの写真。

cameraroll-1301196526.739821.jpeg利根川ばらばら松.jpg

江戸川サイクリングロードを5分ばかり南下し、次は堀江ねこざね。

堀江ねこざね

堀江ねこざね.jpg

明治13年の地図

利根川ばらばらまつ&堀江ねこざね.JPG

猫実は1157年(保元2年)に神明神社が創建されてから栄えていた地域。この神明神社は広重の絵にも描かれている。境川南岸の側にある。尚、左の北岸が堀江、右の南岸が猫実。明治13年でも繁栄しているのが分かる。地図には長島も入れた。長島も栄えている。

現在の地図のブルーポイントで撮った写真

cameraroll-1301196522.770997.jpeg堀江ねこざね.jpg

コンクリートの堤防で、境川口は全く見えない。が、川があるのが伺えないだろうか。又、河口部に建つビルの角度から、川の向きも、写真右奥に流れているのが分かる。

因みに、広重は富士山も描いているが、東向きなので絶対に富士山は見えない。

以上
posted by Yogi at 23:09| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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