2011年01月08日

83. 名所江戸百景L 柳しま

江戸名所百景シリーズの第十三弾、今回は柳しまである。

柳しま.jpg

手前の川は横十間川、奥の、横に流れているのは北十間川。後方には、筑波山である。橋の西岸にある建物は料理屋の橋本、その手前にあるのが法性寺である。

安政5年(1858年)の地図で見てみる。

柳しま.JPG

真ん中に法性寺を配置した。東西に流れるのが北十間川、南北が横十間川である。

現在の地図で見てみる。


より大きな地図で 無題 を表示

筑波山が描かれていることをベースに視点を想定したのがブルーのライン。しかし、これだと法性寺と橋本屋が手前で横十間川は奥になるはずだ。法性寺と橋本屋、横十間川の配置をベースにした想定視点は赤のラインである。筑波山は相当西にずらされて描かれたといえる。広重の絵では、西に向いた絵では富士山が、北に向いた絵では筑波山が多く描かれている。当時の江戸では本当に見えたのだと思う。こういうのを風光明媚というのだろう。

赤のラインの推定視点から写真を撮った。

写真1: 柳しま 広重推定視点

cameraroll-1301472504.213608.jpeg柳しま.jpg

法性寺は、柳島の妙見様と言われ、応元年(1492年)、法性房日遄上人によって開山された。本尊は久遠実成本師釈迦牟尼佛である。

写真2: 法性寺 妙見堂

IMG_0213.JPG

江戸名所図会にも描かれている。

柳嶋 妙見堂.gif

北の空の星は北極星を中心に回っている。だから、古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、妙見菩薩と称するようになったという。

龍馬伝で龍馬が千葉周作の道場で修業し、北辰一刀流を会得したが、千葉氏は常胤の時代から妙見信仰していたので、『北辰』と付けたのである。

以上
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82. 名所江戸百景K 亀戸梅屋舗

江戸名所百景シリーズ第十二弾、今回は、亀戸梅屋舗である。

亀戸梅屋舗.jpg

いかにも広重らしいというか、この構図には『やられた』という感じがある。参った。手前にアップで梅の木の幹を配し、フォーカスは奥の梅園全体とそこの見物客である。これは広重のお得意のパターンなのであろう。深川萬年橋等、他の景でもよく出てくる。

by ゴッホ

亀戸梅屋敷 by ゴッホ.jpeg

安政5年(1858年)の地図を見てみよう。吾嬬の森連理の梓と同じ地図を使う。
吾嬬の森 連理の梓.JPG

吾嬬神社の、北十間川を越えた南側に梅屋敷の文字が見える。

今は梅屋敷は無い。この古地図と現在の地図から、場所を推定してみる。
古地図を見ると、北側は北十間川である。西側は、吾嬬神社の北にある香取神社の西を流れる用水と北十間川の合流地点を起点に、普門院の東側を通る道である。東側は、龍光寺と香取神社の間を通る道だ。

これを現在地図にレイヤしてみると、


より大きな地図で 亀戸梅屋敷 を表示

と、なる。

今はただの住宅密集地である。その密集地の中にある伏見稲荷を撮った。由緒は不明。梅屋敷の中にあったのか?

伏見稲荷

IMG_0212.JPG

ここ梅屋敷は呉服商 伊勢屋彦右衛門の別荘だったそうだが、伊勢というくらいだから伊勢の人。伊勢と言えば熊野だから、関係無いか?!

梅屋敷跡碑

cameraroll-1301472319.200663.jpeg

江戸名所図会

梅屋敷.gif

-----Feb. 19th, 2011, 近所の梅-----

行船公園の梅.JPG亀戸梅屋舗.jpg

以上
posted by Yogi at 15:56| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

81. 名所江戸百景J 吾嬬の森連理の梓

江戸名所百景シリーズ第十一弾、今回は、吾嬬の森連理の梓である。

吾嬬の森連理の梓.jpg

真ん中を流れるのは北十間川である。

安政5年(1858年)の地図では、

吾嬬の森 連理の梓.JPG

真ん中に吾嬬神社を配置した。

現在の地図で広重推定視点


より大きな地図で 吾嬬の森連理の梓 を表示

これは現在でも同じ視点で捉えやすい。

写真1: 広重推定視点

IMG_0204.JPG吾嬬の森連理の梓.jpg

色々邪魔なものもあるが、画面真ん中の幟があるところが吾嬬神社の参道入り口である。福神橋から撮った。

広重の絵では北十間川は左に大きく蛇行しているが、それは広重が良くやる手法。実際は真っ直ぐである。

ここ吾嬬神社は江戸名所図会にも描かれている。

吾嬬森 吾嬬権現 連理の樟

吾嬬森 吾嬬権現 連理の樟.gif

吾嬬森 弟橘姫入水の図

吾嬬森 弟橘媛入水の図.gif

広重の江戸近郊八景之内

吾嬬杜夜雨.jpg

続いて吾嬬神社の諸々写真を。

写真2: 吾嬬神社 参道入り口より全景

IMG_0206.JPG

写真3: 吾嬬神社 文政12年建立の歌碑

IMG_0207.JPG

写真4: 吾嬬神社 鳥居 拝殿

IMG_0208.JPG

写真5: 吾嬬神社 神樟

IMG_0210.JPG

写真6: 吾嬬神社 吾嬬森碑

IMG_0211.JPG

【境内掲示縁起】

抑当社御神木楠は昔時日本武命東夷征伐の御時、相模の國に御進向上の國に到り給はんと、御船に召されたる海中にて暴風しきりに起り来て、御船危ふかしりて御后橘姫命、海神の心を知りて、御身を海底に沈め給ひしかば忽、海上おだやかに成りぬれ共、御船を着くべき方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀にも西の方に一つの嶋、忽然と現到る。御船をば浮洲に着けさせ、嶋にあがらせ給ひて、あ〜吾妻戀しと宣ひしに、俄に東風吹来りて橘姫命の御召物、海上に浮び、磯辺にただ寄らせ給ひしかば、尊、大きに喜ばせ給ひ、橘姫命の御召物を則此浮洲に納め、築山をきづき瑞離を結び御廟となし此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ。海上船中の守護神たり。尊神ここに食し給ひし楠の御箸を以て、末代天下太平ならんには此箸二本ともに栄ふべしと宣ひて、御手自ら御廟の東の方にささせ給ひしに、此御箸忽ち根枝を生じし処、葉茂り相生の男木女木となれり。神代より今に至りて梢えの色変わらぬ萬代おさめし事、宛然神業なり。其後民家の人々疫にあたり死する者多かりしに、時の宮僧此御神木の葉を与えしに、病苦を払ひ平癒せしより、諸人挙って尊び敬ひぬ。今こそ此御神木楠の葉を以って護符となして裁服するに、如何なる難病にても奇瑞現れぬと云ふ事なし。凡二千有余年の星霜おし移ると云へ共、神徳の変らざる事を伝ふべし。共猶諸人の助けとならんと、略してしるす也。

と、いうことで、ここも日本武尊縁の地であった。日本武尊縁の地を繋ぐと、日本武尊東征の道が分かるのではないか。

所で隅田川の本所吾妻橋、何故『吾妻』なのかというと、ここ吾嬬神社への参道だったから、だそうである。

江戸名所図会、江戸名所百景にも取り上げられていて、相当な、名所であったのだろう。

以上
posted by Yogi at 13:52| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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