2011年01月30日

92. 名所江戸百景23 みつまたわかれの淵

名所江戸百景シリーズの第二十三弾、今回は、みつまたわかれの淵である。

みつまたわかれの淵.jpg

ここに描かれている川は隅田川である。『みつまた』とは、本流の隅田川、小名木川、箱崎川のことを指す。又、『わかれ』とは、海水と淡水の分かれ目であることを指している。

安政5年(1858年)の地図を見てみよう。

みつまたわかれの淵.JPG

南北に流れる大きな川が隅田川、北に新大橋、南に永代橋が掛っているのが見える。東から流れる川が小名木川(北側の川、南は仙台堀)。永代橋が掛っている土地、『田安殿』、『土井大炊』等と書かれたているこの土地が箱崎島で、本土・・・と言うと正確な言い方ではないかもしれないが、本土側とこの箱崎島との間を流れるのが箱崎川である。

広重の視点だが、富士山が見えることから東から西を見ていると思われる。と、いうことは、富士山の下に流れ出ている川は箱崎川、その左手、松が茂る建物は箱崎島の田安殿の屋敷と思われる。左右に流れる大河が隅田川で、ということは、小名木川から見た風景ということになる。

成田詣での帰り、小名木川を船で下ってきて、ようやく隅田川に着いた、楽しかった旅ももう終わりだ・・・という時の眺めである。

現在の地図


より大きな地図で みつまたわかれの淵 を表示

グリーンのラインが新大橋、それに続く黒いラインが嘗ての河岸線、黒い線で囲っているのが箱崎島、首都高が箱崎川である。だから、赤いポイントが広重の立ち位置、青いポイントが箱崎川のインレット、赤いラインが視点方向である。

現在の写真

IMG_0315.JPGみつまたわかれの淵.jpg

箱崎島の北側は埋め立てられ日本橋中洲という地域となっている。箱崎川も埋め立てられ首都高速になっている。みつまたはもう無い。

広重の絵をもう一度見て欲しい。隅田川の真ん中に緑の中州が見える。ここをベースに埋め立てたのが今の日本橋中洲である。

明治13年の地図

みつまたわかれの淵明治13年.JPG

箱崎島の北に中洲が見える。

江戸名所図会にも描かれた。

江戸名所図会 新大橋 三派

新大橋 三流.gif

広重は先に描かれていた江戸名所図絵とほぼ同じ視点で描いていた。

以上
posted by Yogi at 12:02| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月29日

91. 名所江戸百景22 大はしあたけの夕立

名所江戸百景シリーズの第二十二弾、今回は、大はしあたけの夕立である。

大はしあたけの夕立.jpg

江戸の時代、隅田川は、江戸に住む人々から、単に大きな川という意味で、『大川』と呼ばれていた。橋も単に『大橋』と呼ばれていたので、大橋と言うとどこの橋を指しているのか分からない。しかし、この絵の場合、『あたけ』が、場所を指定している。

明治13年の地図を見てみる。

大はしあたけの夕立.JPG

真ん中南北を流れるのは隅田川、北に両国橋、南に新大橋が見える。この橋の間、真ん中に安宅濱の文字が見える。だから、大はしあたけの夕立は、新大橋越しに安宅濱を視点に捉えた絵なのである。

現在の地図


より大きな地図で 大はしあたけの夕立 を表示

そう。現在の新大橋は、元の新大橋より上流にあるのだ。元の新大橋の位置はブルーの線で表した。赤のポイントが広重の推定地点、青いポイントが安宅濱、赤いラインが推定視点方向である。

現在の写真

IMG_0312.JPG大はしあたけの夕立.jpg

丁度、屋形船が通ってくれた。

今の新大橋の黄色の支柱の向こうに大きなマンションが2棟見えるが、その辺りが嘗ての安宅濱である。

最後に、安政5年(1858年)の地図

大はしあたけの夕立1858.JPG

安宅濱は御舟蔵だった。広重の絵でも、新大橋の向こうに、微かに、白壁の建物が見える。

以上
posted by Yogi at 22:52| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月23日

90. 名所江戸百景21 両ごく回向院元柳橋

名所江戸百景シリーズの第二十一弾、今回は、両ごく回向院元柳橋である。

両ごく回向院元柳橋.jpg

手前に勧進相撲の開幕を知らせる幟を掛ける櫓、その奥に隅田川、隅田川の向こう岸には薬研掘に掛る元柳橋、更にその奥、遠景には富士山。色のグラデーションも見事な絵だ。

さて、この回向院、由緒だが、明暦3年(1657年)開山の浄土宗寺院。この年、江戸で「振袖火事」こと明暦の大火があり、その時の無縁の被災者を弔う為に、将軍家綱の命により開山された。

又、回向院と言えば相撲だ。勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768年)、天保四年(1833年)より春秋二回の興行の定場所となり、明治四十二年の旧両国国技館が完成するまでの七十六年間続いていた。

安政5年(1858年)の地図を見てみる。

両ごく回向院元柳橋.JPG

現在の地図。さて、回向院、現在の正門は、京葉道路沿い、赤いポイントである。


より大きな地図で 両ごく回向院元柳橋 を表示

正門は、両国橋から真っ直ぐそのまま繋がる道にあった。現在地図の青いポイントの位置である。

同じく広重の東都名所から両国回向院境内全図を見てみる。

両国回向院境内全図.JPG

櫓は正門の直ぐ近く、南側にある。

再び安政5年(1858年)の地図を見て欲しい。両国橋の左上に『柳バシ』の文字が見えると思う。これは神田川に掛る、今もある柳橋である。そのまますーっと南に視点を動かして欲しい。堀が見えると思う。これが薬研堀だ。橋も見えるだろう。これが元柳橋である。広重は、櫓越しにこの元柳橋を視界に入れていた。

現在地図で確認する。緑のポイントが櫓推定地点、黄色ポイントが元柳橋推定地点、赤いラインが広重推定視点である。

それになぞって撮った写真

cameraroll-1301196468.355331.jpeg両ごく回向院元柳橋.jpg

今は全く面影が無い。

ここ回向院は、江戸名所図会にも描かれている。

回向院.gif

櫓が無いのが分かるだろう。

回向院で勧進相撲が開かれるようになったのは1833年からだ。江戸名所図会は1836年に最終版が刊行されたが、着手は1798年以前、だからその頃は相撲が開かれていなかったのだろう。

以上
posted by Yogi at 11:24| Comment(0) | 名所江戸百景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。