2010年12月21日

68. 国府台〜矢切(浅間神社〜角町)

前回の続き。

松戸街道に戻り先に進む。
現在の水戸街道との交差点を過ぎそのまま旧道を行くと、浅間神社がある。

写真1: 浅間神社 鳥居

浅間神社 鳥居.JPG

長い階段を上る。途中、珍しい狛猿がいた。

写真2: 浅間神社 狛猿

浅間神社 狛猿.JPG

写真3: 浅間神社 拝殿

浅間神社 拝殿.JPG

浅間神社は、正保4年(1647年)6月1日創建。祭神は木花咲耶姫命と八幡太郎義家。この浅間神社がある山は極相林で形成されている。森林が形成されるまでには、その内部で、日照・気温・湿度などの自然環境に適応できない樹木の淘汰がすすみ、やがて生育に適した植物のみが層位(高木、亜高木、低木、草本)ごとに定着して、長期的に安定した森林を形成する。浅間神社の神域一帯はヤブニッケイがほぼ全域に高木として繁茂しており、タブノキ、ツバキ、ムクノキ等の原生林が残っている。原生林である。

更に進むと、弁財天宮がある。

写真4: 弁財天宮

弁財天宮.JPG

常磐線の陸橋を渡り流山街道に出る。進むと左手に増長院がある。

写真5: 増長院

増長院.JPG

直ぐに坂川。その橋はレンガでできている年代物の橋で眼鏡橋と呼ばれている。

写真6: 坂川 レンガ眼鏡橋

坂川 レンガ眼鏡橋.JPG

徳川家康が積極的に新田開発(1692年)を行ったことで、新松戸・旭町・栄町に新田ができた。
逆川(現坂川)はそれらの新田に度々洪水を起こし、3年に1度収穫があればいい程であった。新田で堰を高くすると上流が洪水になり、そのための争いも起こった。
1781年、上郷名主の渡辺庄左衛門(充房)が国府台下までの掘削を初めて幕府に請願した。
1801年に幕府が視察に訪れたが、下郷7ヶ村(古ヶ崎・根本・小山・上矢切・中矢切・下矢切・栗山)が反対し、請願は保留となった。
1812年に渡辺庄左衛門(充房)が死亡し、翌年、渡辺庄左衛門(寅)のときに一本橋から松戸宿までの新堀の掘削が開始された。しかし、洪水予防の効果はなく国府台下までの掘削の請願を繰り返したため下郷7ヶ村との軋轢は高まる一方であった。
1833年、渡辺庄左衛門(睦)が国府台下までの掘削の測量を開始したが、下郷7ヶ村の村民が反対のため浅間山に立てこもり古ヶ崎村から測量に来た百姓に死者まででた。
奉行所の調停により、1835年から国府台下までの掘削が開始された。洪水被害はやや収まった。
1910年、樋野口に蒸気機関の排水機場が完成し、1932年(昭和7年)より新坂川の掘削が開始され、新坂川を「用水」に坂川を「排水」として機能するようになった。

レンガ眼鏡橋は、1898年(明治31年)、江戸川からの逆流防止のために建てられた。レンガ造りの構造物としては、千葉県でもっとも古い橋。

橋を渡ってすぐ右手に圓慶寺がある。

写真7: 圓慶寺

圓慶寺.JPG

ここが角町だ。明治13年の地図を見ると、ここから先根本の交差点辺りまでが栄えていた所らしい。
松戸は次の機会にじっくり回るとして、今回は角町を江戸川沿いに戻ることにする。

が、その前に。増長院と常磐線を挟んで反対側に、戸定ヶ丘歴史公園がある。

写真8: 戸定ヶ丘歴史公園 正門

SANY0016.JPG

最後の将軍徳川慶喜の弟にして最後の水戸藩主、徳川昭武(あきたけ)が明治になって住んだ邸宅で、明治期の和風上流建築として貴重であるとして国の重要文化財に指定されている。

徳川昭武は、嘉永6年(1853年)、江戸駒込の水戸藩中屋敷で誕生する。その半年後から水戸にて養育されるが、幕末の動乱のため、文久3年(1863年)、10歳の時に再度江戸入り。同年、京都で病に伏した兄昭訓の看護の名目により上京する。当初は長者町の藩邸に滞在するが、禁門の変の後は東大谷長楽寺、本圀寺に滞在する。滞京中の佐幕活動は多忙を極め、禁門の変や天狗党の乱に際しては一軍の将として出陣するなど、幼年ながらも幕末の動乱に参加している。

従五位下侍従兼民部大輔に叙任。第14代将軍徳川家茂の死去に伴い、諱を昭武と改名する。14歳の時、慶応2年(1867年)、清水徳川家を相続する。同時にパリ万国博覧会に将軍慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられ、使節団を率いて渡仏する。この使節団にはあの渋沢栄一もいた。

ナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問する。万博終了後に引き続き、幕府代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴訪。その間に、オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、イギリス女王ヴィクトリアに謁見した。

非常に良い公園でした。お薦めです。

今日はここまで
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2010年12月19日

67. 国府台〜矢切(大坂〜神明神社)

前回の続き。

大坂より坂を上る入り口右側に旧道がある。そこも上り坂。そこを上る。上り切ったところ直ぐ左手に妙法寺がある。

写真1: 妙法寺

妙法寺.JPG

妙法寺の脇の細い道を入ると西蓮寺本堂に行くが、民家の庭のようで入るのを躊躇う。恐る恐る覗くようにしているとおばあさんから声を掛けられ、ここではなく大阪の方から入るよう言われた。道を戻り、大坂入口の階段を上がると、寺の裏手に出る。公園のようになっており、古戦場跡の説明板や、野菊の墓の伊東左千夫の碑があった。

写真2: 野菊の墓 碑

野菊の墓 碑.JPG

西蓮寺は永禄7年(1564年)の国府台合戦の際に兵火で焼けてしまったが、その時、本尊阿弥陀如来像だけは庭の榎の洞穴にどうにか隠しすことができたという。そのまま年数が経ち、御本尊は取り出せなくなっていた。

元和2年(1616年)、徳川家康の家臣外山忠兵衛正吉は大坂の夏の陣の功績によって、下総小金領下矢切の地で213石を領することになった。寛永17年(1640年)外山忠兵衛正吉の遺跡を継いだ外山忠兵衛正春は、慶安2年(1649年)、家来の高安長右衛門を従えて領地内を見て回った。村人から霊験あらたかな西蓮寺のご本尊の阿弥陀如来の話を聴いた外山忠兵衛正春は、榎洞の場所を村人とともに探し出した。子宝に恵まれなかった外山忠兵衛正春は喜び、お堂を造り尊像を安置し、丹誠をこらして信心したという。不思議なことに、阿弥陀如来のご霊験あって、忠兵衛正春の妻は程なく懐胎なされ、慶安3年、男子をめでたく出産なされた。生まれた子の名は当之助。その後、慶安3年(1650年)年、遍照房が草堂を再興し、寺屋敷を付置いたという。当之助は外山藤左衛門正重と名を改め、その後小作正重と名乗った。延宝8年(1680年)、大風雨のためにお堂が破損したので、小作はお堂を建立、天和元年(1681年)には阿弥陀如来尊像並びに法具、田地を如来のために献上した。

大坂を上る。突き当りの道が松戸道の旧道だ。その交差点に矢喰庚申塚がある。

写真3: 矢喰庚申塚

矢喰庚申塚.JPG

以下は、庚申塚保存会の説明である。

温暖で平坦な下総原野が川と海に落ち込むこの矢切台地に人が住んだのは約5千年前、朝に魚や貝を採り夕べに鳥や獣を追う平和な生活も下総の国の国府が国府台に置かれた千3百年ほど前から武士たちの政争の場となり、なかでも北条市や里見氏の国府台合戦はこの矢切が主戦場となり戦没者は一万余を数えました。

家は焼かれ田畑は荒らされ、女、子供、年寄りは逃げまどい、男どもは人足に狩り出され傷つき、一家は離散。この塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ、親から子、子から孫に言い伝えられ、江戸時代中期に、二度と戦乱のないやすらぎと健康を願い庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻み、朝夕お祈りをしてきました。このたび先人たちの苦難と生きる力強さを知り、四百年前の遺蹟と心を次の世代に伝えるため、平和としあわせを祈りこの塚をつくります。 昭和六一年十月吉日 庚申塚保存会

大坂を挟み、矢喰庚申塚と向かいにあるのが、矢切神社である。

写真4: 矢切神社 拝殿

矢切神社 拝殿.JPG

写真5: 矢切神社 鳥居 銀杏

矢切神社 鳥居 銀杏.JPG

宝永元年(1704年)6月29日の長雨により、江戸川が大洪水を起こし、水高が地面より8尺余り(約2m50cm)となった。当時の矢切の民家は江戸川沿岸にあったため、多数の死者を出し、産業も甚大な被害を受けた。災害から逃れるように村民が台地上に移住し、鎮守として京都東山より稲荷を勧請して祀ったのが矢切神社である。かつては稲荷神社と呼ばれていた。 なお、矢切村(上矢切、中矢切、下矢切)全体の総鎮守として香取神社があったが、この洪水を契機に上矢切に神明神社、下矢切に矢切神社が設けられ、香取神社は中矢切の鎮守となった。

香取、神明も後で訪れる。

旧道を進む。途中、左手に浄安寺がある。

写真6: 浄安時

浄安時.JPG

更に進むと右手に中矢切鎮守、香取神社がある。

写真7: 香取神社

中矢切鎮守 香取神社.JPG

R298を陸橋で越える。旧道を進むと直ぐに松戸街道に当たる。松戸街道を行く。松戸市健康増進センターの小道を入り道沿いに進むと上矢切鎮守 神明神社がある。

写真8: 神明神社 鳥居

上矢切鎮守 神明神社 鳥居.JPG

鳥居前に石碑群が集められていた。

写真9: 神明神社 鳥居前 石碑群

上矢切鎮守 神明神社 鳥居前 石碑群.JPG

写真10: 神明神社 拝殿

上矢切鎮守 神明神社 拝殿.JPG

今日はここまで
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2010年12月12日

66. 国府台〜矢切(国府台天満宮〜)

前回の続き。

総寧寺からの道をそのまま進むと、直ぐに国府台天満宮がある。

写真1: 国府台天満宮

国府台天満宮.JPG

国府台天満宮は、文明11年(1479年)、当地の鎮守として、太田道灌が建立した。元々は法皇塚の墳頂部に祀られていたが、明治8年(1875年)、大学校設立の用地として周辺地域が買い上げられた時、農家と共に現在地に移された。

国府台天満宮と言えば辻切である。辻切りとは、人畜に危害を加える悪霊や悪疫が部落に侵入するのを防ぐため、部落の出入口にあたる四隅の辻を霊力によって遮断しようと、藁で2メートルほどの大蛇を4体作り、御神酒を飲ませ魂入れをして、町の四隅にある樹に頭を外に向けて結び付ける。辻切り行事は毎年1/17に、この天満宮境内で行われる。

そのまま旧道を進む。

台地から江戸川低地に出て暫く進むと、右手に本久寺、直ぐ隣に栗山日枝神社がある。

写真2: 本久寺

本久寺.JPG

本久寺は1690年(元禄3年)の創建

写真3: 栗山日枝神社

栗山日枝神社.JPG

本久寺、栗山天満宮に面した旧道を進むと突き当り、そこを右に行くと台地に向かって階段がある。そこを上ると、栗山浄水場がある。ここには、1937(昭和12)年に竣工し、土木学会選奨土木遺産の配水塔がある。

写真4: 栗山浄水場 配水塔

栗山浄水場 配水塔.JPG

戻り旧道を進む。江戸川低地より台地に上がる坂がある。ここが、国府台合戦の激戦地、大坂である。

写真5: 国府台合戦 古戦場跡 大坂

国府台合戦 古戦場跡 大坂.JPG

里見一族が館山から国府台まで勢力をのばして、さらに江戸領域を奪おうと力を広げていた。が、当時、既に、北条家が千葉を広く支配していた。松戸の高城氏、千葉氏、原氏も北条一族に服していた。江戸城にいたのは、北条の城代家老遠山丹波守。

矢切側に城を築いていたのは里見義弘、彼が8000騎を率いて陣を張ると、向かい側の帝釈天側には、江戸城代家老遠山丹波守直景と葛西城の勇将富永三郎右衛門が着陣していた。北条勢は2万人。1/7、両軍は江戸川を挟み対陣した。

大谷口に城のあった高城氏が、矢切の一角に陣を張り、江戸城代家老遠山側に味方したので、小田原から北条氏康、氏政親子が、総大将として、遠山・富永到着前に仕掛けて行った。その後、遠山・富永は自信をもって、江戸川を渡り、里見義弘8000騎に積極的に戦いを進めた。

遠山軍に押されて、里見軍は退却していき、ここ大坂の途中まで北条方が押し寄せてきて、里見軍が坂の上に立ったとき、一斉に討ちかかり、勇将富永三郎右衛門はここで獅子奮迅の戦いをしたが、落馬したところを里見軍が押し掛り、戦死した。それが文学碑のある下の坂道である。

城代家老遠山丹波守直景は、坂下坂川の手前にある「カイカバ曲がり目内野」という場所で、里見側の16歳の少年に打ち取られた。

その日の戦いは、北条側の敗北で、柴又へ引き上げた。その夜、里見側は戦勝祝いで酔いつぶれているところへ、北条軍は忍び寄り、挟みうちの夜襲をかけた。二度目の戦いである。油断していた里見軍はコテンパンに敗れて、市川から中山を経て、安房へ逃れた。その後、再起することはできなかった。

本土寺の過去帳には「コウノ台ニテ上下諸人 遠山殿(江戸城主)正月 其外千余人」と記されている。最終勝利者である北条側の死者は、手厚く葬られているようだ。房総の領有権も里見から北条へ移った戦いであった。

今日はここまで
posted by Yogi at 08:10| Comment(0) | 町・村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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