2010年11月26日

64. 国府台〜矢切(小岩・市川の渡し 市川関所跡〜羅漢の井)

もう近所は殆ど回ったのでどうしようかと思案していたが、国府台、矢切、松戸の、現在の松戸街道をきちんと回っていない(一度桜の季節に巡っているが、写真があまり残っていない。)ことを思い出し、そこをテーマに何回かに分けて散策していきたいと思う。

国府台に向かう。元佐倉道も飽きたので今回は江戸川サイクリングロードを行く。この季節、北風なので往きは向かい風。スピード優先でこの道を選んだのに、かえって時間が掛った。1時間費やす。

まずは、小岩・市川の渡しの市川関所跡に向かった。ここから右(南)の道を行けば佐倉道。左(北)に向かえば松戸道だ。だからここを起点にした。

写真1: 市川関所跡

市川関所跡.JPG

ここのご紹介は、『38. 佐倉道(市川関所跡〜弘法寺参道)http://yogimessage.seesaa.net/article/156655841.html』で済んでいるので写真のみとする。

松戸道を北へ。現在の松戸街道は京成本線のガードをくぐるが、旧道は、ガード手前、カフェ ローズの所を右に入っていく。そのまま道なりに。真間川も越えると再び現在の松戸街道に合流する。途中、杉田屋や菊野屋等、昔からの商家のような屋号の店もあったが、面影無し。

松戸街道に出ると上り道。ここから国府台の『台』に当たる地域に入っていく。直ぐの右手に国府神社がある。

写真2: 国府神社

国府神社 拝殿.JPG

寛治元年(1087年)創建、祭神は日本武尊、御神体はコウノトリの嘴。ここ、国府台は、日本武尊の伝説が残る土地だ。

景行天皇(在位: 71年8月24日 - 130年12月24日)の次男である日本武尊が東征の折、下総の賊を平定してこの台地に陣を張った。武蔵の国に向かおうとしたが、当時はこの土地はデルタ地帯で、船を使わず浅瀬を渡ることはできないかと思案していた所、一羽のコウノトリが現れ道案内をし、無事、武蔵の国に辿り着けた。日本武尊は功績を称え、そのコウノトリにこの土地を与えたという。それがここ鴻之台(国府台)の地名の起こりであるという伝説が残っている。

しかし実際は、その後、ここに下総国の国府が置かれたことが地名の起こりであることは明白で、正に伝説である。

先に進む。右手に千葉商科大学、左手に和洋女子大学、共に台地上にある。よって道は台地が削り取られたいわゆる切通しと思われる。千葉商科大学の終わりにスポーツセンターがある。ここが、下総国の国府があった所。

野球場と陸上競技場の間に、下総総社跡がある。

写真3: 下総総社跡

下総総社跡.JPG

大化改新(645年)により、それまでの国造による地方統治から、中央による直轄統治が進められ、地方統治の単位である国毎に国府を定め、中央から国司を派遣して、行政に当たらせた。この、天皇中心の律令国家は、壬申の乱(672年)を経て、天武・持統朝に強力に展開され、大宝元年(701年)の大宝律令の成立によって完成した。

国府に勤める役人は、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の4等官の下に組織され国司と呼ばれた。国司が勤める役所を国庁、国庁がある区画を国衙、国衙がある町を国府といった。国司は定期的に国内の主要な神社を巡拝する義務があったが、主要な神社を国衙の近くにまとめて祀り、総社と称した。

ここはその下総国総社跡である。

更に先に進む。東京医科歯科大学の終わりに里見公園入口に続く道がある。そこを入る。

写真4: 国府台城址

国府台城址.JPG

ここ里見公園は、国府台城址でもある。

扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が文明10年(1478年)の千葉氏内紛の際に千葉自胤を援けて下総国境根原(現在の千葉県柏市酒井根付近)での合戦を前に、国府台の地に仮陣を築いた。それが国府台城の始まりである。翌年、臼井城の千葉孝胤を攻めた際、道灌の弟太田資忠らが、この地に城を築いた。国府台城は後北条氏、千葉氏と里見氏、太田氏、上杉氏らの度重なる勢力争いの舞台となっており、争奪戦が繰り返された。しかし、豊臣秀吉による小田原征伐後、後北条氏に代わって江戸に入府した徳川家康によって廃城にされた。江戸を見下ろす場所にあったからとも言われている。

里見公園の入口に戻り入り口までの道をそのまま下ると、江戸川に出る手前に羅漢の井がある。

写真5: 羅漢の井

羅漢の井.JPG

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_総寧寺 羅漢の井.jpg

井戸の位置は殆ど変ってない様子だ。

国府台自体も江戸名所図会、広重の江戸名所百景に描かれている。

江戸名所図会 国府台 断崖の図

江戸名所図会_国府台 断崖の図.jpg

江戸名所百景 とね川風景

広重_国府台利根川風景.jpg

現在の写真では、

写真6: 国府台 断崖

国府台 断崖の図.JPG

江戸時代ほど江戸川はギリギリまで張り出していない。度重なる洪水で崖が削られ、水は減ったのだろう。

もう3時間近く経過していたので帰ることに。帰りはそのまま江戸川沿いを下る。すると、江戸川沿いに水神宮を発見。

手造りの説明板が良かったので掲載することにする。

写真7: 根本排水機場脇 水神宮

根本排水機場脇 水神宮.JPG

根本排水機場脇 水神宮 説明.JPG

今日はここまで
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2010年11月15日

63. 猫実 豊受神社の大銀杏、上今井 浄興寺

銀杏の色づき具合はどうかと、過去、散策し、見事な銀杏があった史跡を訪ねることにした。
紅葉で有名なところで楽しむのも良いが、有名ではない、自分だけしか知らないところでひっそりと楽しむのもこれ又良い。

記憶を頼りに過去の記事を検索したところ、猫実の豊受神社、小岩の五北天祖神社、下鎌田の豊田神社等があった。あまり時間が無いので、近所が良い。そこで、猫実の豊受神社、色づきがまだだったら下鎌田の豊田神社にも寄ろうと出かけた。

写真1: 猫実 豊受神社

豊受神社_大銀杏2.JPG

周辺に行くと何か騒がしい。そういえば今日は11/13、七五三である。
色づきはと言うと写真の通りでまだ3分といったところか。

当代島を通る旧道を行き、下鎌田を目指す。船入川跡に、引っ越しを考えているテラスハウスがあるので、そこを見学しようと旧道を舟入川跡へ左折。テラスハウスを探してうろうろしていると、稲荷神社を発見した。27. 堀江、猫実、当代島、新井の散策時には気付かなかった神社だ。こういう思わぬ発見は楽しい。

さて、先に進み、新今井橋を渡り上今井に入る。岩槻道(篠崎街道)を進み下鎌田の豊田神社に向かう。

ここもやはり賑やか。しかし、今度は七五三ではなく秋祭りのようだ。様子を見ようと公園に向かうと、神社の裏手に13. 岩槻道(篠崎〜西瑞江)の時には気付かなかった石造群を発見。

写真2: 下鎌田 豊田神社 石造群

豊田神社 石造群.JPG

写真3: 下鎌田 豊田神社 地蔵

豊田神社 地蔵.JPG

しかし、ここも色づきは3分、写真すら撮らなかった。

時間も無くなったので、ここで帰ることにした。帰り道、車の多い岩槻道を避け、一本北の旧道を行くことに。ここでふと思い出す。13. 岩槻道(篠崎〜西瑞江)の記事の後に、江戸名所図会を調べていたら、上今井の浄興寺が描かれているのを知り、行かなかったことを後悔していたことを。ここは挽回の機会、浄興寺によることにする。途中、泉福寺、山王神社、安養寺、を過ぎるコースだが、時間も無いのでそれらは素通り。

写真4: 浄興寺

浄興寺.JPG

寺に設置されている江戸川区の説明によると、浄土宗の古刹、芝増上寺の末。文永3年(1266年)、源清和尚が草庵を結んだのが始まりで、弘安年間(1278〜1287年)に、記主禅師が鎌倉の光明寺から下総の光明寺へ赴く途中、この寺に一宿し、住持が開山を願ったという。

永正6年(1509年)には、連歌師・柴屋軒宗長は隅田川から川舟で行徳に近い今井に向かい、浄興寺を訪れ小岩市川の渡しから善養寺を訪ねた紀行文「東路のつと」を書いている。

1509年と言うと、まだ小名木川も、新川も、竪川も開削されていないころ。大正時代にできた荒川も当然無い(当時の荒川は今の隅田川)。と、いうことは、船で今井までどうやって来たのか。中川はあった。中川を羽生まで上れば利根川と合流する。わざわざ羽生まで行くというのもどうかと思うが、船で行けることは行ける。でも、では中川まではどうやって船で行ったのか。それとも海か。東京湾経由なら早いが。いつか、雨の週末にでも調べたい。

【東路のつと】

隅田川の河舟にて葛西の府のうちを半日ばかり葭・蘆をしのぎ、今井といふ津より下りて、浄土門の寺浄興寺に立ち寄りて、とあれば、はやくよりこの津のありしことしられたり

又、いわゆる国府台合戦にて、この地は北条氏の領地となった。その時、氏康が浄興寺を訪れている。それが江戸名所図絵になっている。

江戸名所図会_北条氏康鷹狩.jpg

絵の中の文は、

天文十五年の秋、小田原の北条左京太夫氏康、むさし野小鷹狩りのとき、 葛西の浄興寺に一夜のやどりをもとめられ松風入琴といへる和歌を題にて詠ぜられしこと「武蔵野紀行」に見えたり。

松風の吹くこゑきけばよもすがらしらべことなる音こそかはらね 北条氏康

和歌の題材になった琴弾松も単独で描かれている。

江戸名所図会_今井 浄興寺 琴弾松.jpg

東土産 富士の根は遠からぬ雪の千里かな

方丈の西にさしむかひ、雪くもりなく見えわたるばかりなり 宗長

本堂に向かって左側に、富士山が良く見えたとのこと。今は全く見えません。

帰りは古川沿いを環七まで戻り、環七からは新川と行徳塩の道を戻った。

以上

【本日の行程】


より大きな地図で 豊受神社〜豊田神社〜浄興寺 を表示

明治初期の地図では、

豊受神社〜豊田神社〜浄興寺.JPG

PS.
この日は午後から旧古川庭園で紅葉散策の予定でした。色づきはまだ3分。近くの六義園にも寄ったが同様。来週か再来週が見頃でしょう。

写真5: 旧古川庭園 紅葉

SANY0011.JPG
posted by Yogi at 08:15| Comment(2) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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