2010年08月15日

46.佐倉道(木下街道〜中山競馬場入り口)

前回の続き。

木下街道まで戻る。
鬼越2丁目の交差点から進むと、中山法華経寺参道入り口脇に妙圓寺がある。

写真1:妙圓寺

妙圓寺.JPG

法華経寺末、本尊 釈迦牟尼仏・多宝如来、宗祖日蓮大菩薩。開宗祖師日蓮大士宝孫本山法華経寺三十世日俊聖人開基、延宝二甲寅年(1674年)十一月創立。

更に進むと吉沢野球博物館の少し先に子之神社がある。

写真2:子之神社と妙見八幡神社

子之神社.JPG

[子之神社]祭神 大己貴命、大宮社祭神不詳。由緒不詳も「県神社明」には[合殿 子ノ神社 大宮社]とあるので、明治初期には現在妙円寺境内にある大宮大権現と一緒に祀られていたものと想定される。社殿に安置されている神像は、延享元年(1746年)の造立。

[妙見八幡神社]千葉と八幡が国境を争っていたが、なかなか決着がつかなかったので、千葉が亀、八幡が馬を出して、両方から街道を行かせて、その落ち合ったところを国境にすることになったという。両方があったのは小栗原村であったので、小栗原は八幡領となったという。その境に建てたのがこの妙見八幡神社。

直ぐ先を左に入ると稲荷神社がある。

写真3:稲荷神社

中山稲荷神社.JPG

明治三十三年(1900年)、土取りに伴い隣地に移転。もとは石井孫左衛門家の氏神として祀っていたものを村で譲りうけて鎮守とした。

更に進むと左手に多聞寺がある。

写真4:多聞寺

多聞寺.JPG

開山九老僧大圓阿闍梨日傳聖人、創建永仁六年(1298年)。日傳聖人が宗祖に帰伏し弘法の守護神として毘沙門天を賜わり、一宇を開創した。本尊勧請様式は一塔両尊四士であり、祖像は、享保年間(1716〜36年)の説法像である。この地は、昔、二子ヶ浦といい、日蓮聖人が鎌倉へ布教におもむく時に、船出をされた霊跡であり、この由緒深い地に一宇が建立された。又、境内には慈母観世音菩薩が安置されている。

中山法華経寺 奥の院の説明で日蓮が鎌倉と中山を往復したとあったが、ここを経由したということか。で、あるならば、ここから奥の院までの日蓮が通った道があるはずだ。今度探ってみたい。

佐倉道を挟んで向かいには、その、二子藤の池と少し先に二子浦の池。

写真5:二子藤の池

二子 藤の池.JPG

写真6:二子浦の池

二子浦の池.JPG

暫く行くと左に入る道の角に庚申塔がある。

写真7:東中山庚申塔

東中山庚申塔 (2).JPG

少し先に東明寺がある。

写真8:東明寺

東明寺.JPG

室町時代の末期弘治三年(1557年)誓誉上人によって創建された。本尊阿弥陀如来を始め脇座円光大師(法然上人)並びに薬師如来の尊像を奉安している。特に薬師如来は近村にも珍しい古佛で行基菩薩の御作と伝えられる木版画、並びに「部田(へた)薬師如来」と刻した古碑あり部田とはその昔此処の小字であり寺下の水田(現在住宅地)を薬師下とも称した、尚薬師佛、十二神将を安置している故か薬王山神将院と号し霊験あらたかな佛として今日に至っている。

今日はここまで。
posted by Yogi at 09:16| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月05日

45.佐倉道(若宮〜古作〜印内)

前回の続き。

中山法華経寺境内脇の出入り口から、中山法華経寺東側の旧道に出る。道なりに北に進むと正中山奥之院がある。

写真1:正中山奥之院

奥之院.JPG

鎌倉時代中期、下総国守護千葉頼胤に仕えていた富木常忍は、八幡荘と呼ばれていたこの地に館を構え、幕府のある鎌倉と往復した。その際、偶然に、布教に懸命だった日蓮と出会い、熱心な信者になったという。

文応元年(1260年)、鎌倉松葉が谷で焼討ちにあった日蓮は、常忍を頼り、若宮に難を逃れた。常忍は、館の中に法華堂を建て、日蓮に説法を頼んだ。文永元年(1264年)、安房小松原で東条景信に襲われた際も、日蓮は常忍を頼り、若宮に身を寄せた。こうして開かれた日蓮の説法は100回を超えるという。この地が日蓮の初転法輪の旧跡といわれるのはこれが故。

弘安5年(1282年)、日蓮入滅後、常忍は出家し日常と名乗り、法華堂を法華寺とし、後、太田乗明が出家し開いた本妙寺と合体し、法華経寺となる。そして、元あったこの法華寺は奥之院と呼ばれるようになった。

旧道を進むと若宮八幡神社に出る。

写真2:若宮八幡神社

若宮八幡神社.JPG

松葉谷の焼き討ちで若宮に難を逃れた日蓮は、ここ若宮八幡で説法したという。

更に、畑の中の道を進むと県道180号線に出るが、その手前、交差点に庚申塔のようなものが建っていた。表面が剥離し確認できず、写真も撮らなかったが。

県道180号線を突っ切り、突き当りを左に折れると明王院がある。

写真3:明王院

明王院.JPG

長禄二年(1458年)創建、真言宗寺院、旧古作村の中央に位置している。正式には石動山阿遮羅寺明王密院という。寺院本末帳(江戸時代)によると佐倉市井野にある千手院の末寺であったという。また、本郷村の満善寺(明治期に廃寺)、海神村の大覚院と吉祥院、寺内村の常楽寺、河原村の龍厳寺(現双輪寺)等、五ヶ寺の門徒を有していたという。本尊は不動明王で、葛飾誌略(江戸時代)によると『霊験殊勝なる尊像なり』と記されている。

旧道を進む。暫く行くと右手に妙見神社がある。

写真4:妙見神社

妙見神社.JPG

神社の前の台地は往古には海の入り江で、青松白砂の景勝地だったという。この地は寺内と称し、文字通り寺領の内の意味。となりの印内も、院内の意味。この妙見、下総の国の豪族、千葉氏が崇敬した神で、千葉氏がこの地を支配していた時に、篤信の士により奉斎されたものと思われる。

暫く進むと、左手に葛羅の井がある。

写真5:葛羅の井

葛羅の井.JPG

葛飾明神の御手洗の井といわれ、平忠常の父忠頼の産湯を汲んだという伝説があります。文化9年(1812年)、大田南畝によって書かれた「葛羅之井」と銘文が碑に刻まれている。

更に進むと右手に宝成寺がある。

写真6:宝成寺

宝成寺.JPG

社伝によると江戸時代初期に、同地域を治めていた栗原藩成瀬氏の菩提寺として創建された曹洞宗派の寺院。同寺には、成瀬正成の次男之成と之成に殉死した3人の家臣、夭折した之虎、第7代犬山城主成瀬正寿など、17基が存在する市内唯一の大名家の墓所であり、「成瀬氏の墓 附 墓誌」として船橋市の文化財に指定されている。なお、同寺を栗原藩陣屋とする説もあるが、記述の通り、ここは藩主の菩提寺であり、陣屋はここから離れていない場所に別に求めるのが妥当であると考えられる。

この寺も、其の年代は分からぬけれど、智泉和尚(慶長十三年[1608年]七月十一日寂)という者の開基で、葛西六郎茂春という人の開創だと古くから伝えられて居つた。[葛飾誌略]。故に山号を茂春山という。直心場と号する。昔は俗に栗原の東堂と呼んだともいう。元来は智泉以前よりあつた相当の古寺であると見えて、徳川時代には三十石の御朱印寺領を与えられて居つた。...中略...徳川時代の始め此の寺は地頭成瀬氏の菩提所となつた。故に成瀬氏を中興と称する。旧称は法城寺であつたが、この時成瀬氏の成の字をとって宝成寺と改めたのだという。成瀬氏は初代正成寛永二年正月十七日江戸で死去してこの寺に火葬せられた。墓は此処には見当たらぬけれど、今も寺の本堂には其の位牌を安置してある。...略...其の後正成の後嗣之成は寛永十一年(1634年)十月死去して此処に葬られた。その子藤蔵之虎も寛永十五年(1638年)十二月に死して、また此処に葬られた。

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_葛飾明神社 葛の井 萬善寺 栗原宝成寺.jpg

京成本線を過ぎると佐倉道に戻る。

今日はここまで
posted by Yogi at 22:29| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。