2010年08月22日

49.佐倉道(市川〜成田道行徳ルート交差点)の地図


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今まで、色々な道を走ってきたが、ここが一番面白かった。
佐倉道、現在のR14を走っていると、車も多いので、ついつい、自転車のスピードも上がってしまう。交通上の注意に神経が行き、道沿いにある寺社すら気付かないことがある。まして、道端にある庚申塔など全く気付かない。

R14は何度も何度も走ったことがあったが、だから期待していなかったのだが、事前に地図で史跡の位置を頭に入れ、そこを訪ねる方法にすると、こんなにも歴史が詰まった道だったのかと感動した。

特に、R14の北側、台地になっているところは旧道が残っていて緑も多く静かで古くからの住宅も多く街並みとして非常に素晴らしかった。

黒松通りはそのハイライトだろう。

市川から海神に向かい進むと、以下の移ろいを感じる。

まずは真間周辺の天平時代
次は葛飾八幡宮周辺の平将門
最後は中山法華経寺周辺の日蓮

手児奈伝説をはじめ、国分寺など、天平時代を感じる史跡に続き、天神様が多いと感じるようになる。次いで、日蓮宗の寺が多く感じられるようになっていく。

これも面白かった。

台地を走る旧道、ここを全て舐めてみたい。庚申塔など多く見つかるのではないか。

大野周辺の平将門縁の地も行ってみたい。

日蓮が上陸し奥之院までの道も探ってみたい。

又、日蓮の時代、1200年頃は、この佐倉道が海岸線だったとしている。だとすると成田道行徳ルートなどは海の中。時代によって海進が異なるということなのだが、それも興味深い。

明治初期の地図ではこうなる。

佐倉道(市川〜船橋).JPG

以上
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48.佐倉道(山野浅間神社〜成田道行徳ルート)

前回の続き。

暫く進みセブンイレブンがある交差点を右に入る。ここは旧道だ。突き当って右に進むと突き当りに龍神社がある。

写真1:龍神社 標柱

龍神社.JPG

写真2:龍神社 鳥居 拝殿・本殿

龍神社 (2).JPG

龍神社は西海神の鎮守で大錦津見命を祀る。仏名を娑竭羅龍王という。阿須波の神ともいわれている。明治以前まで大覚院が別当をしていたと伝えられ、同寺の山号を龍王山と称する。万葉集巻二十に、

庭中の阿須波の神に小柴さし我れは斎はむ帰り来までに

の歌が伝えられている。境内にある小さな池には 弘法大師の石芋や片葉の蘆の伝説が残されている。

写真3:龍神社 石芋伝説の池

龍神社_弘法大師芋洗いの池.JPG

「海神村の右に田あり。中に木の鳥居を建つ。左りに田二丁ほどを隔て山岸に竜神の社あり。二間半四面、前に拝殿あり、榎の古木八九本境内を廻れり。石の鳥居を建たり。傍に二坪にたらざる小池有。端高く水至て低し。水草繁き中に青からの芋六七茎生たり。これを土人石いもと呼り。昔弘法大師廻国してここに来りしに、老たる婆々芋を煮ゐたりしかば、見て、壱つ給はれと言ふに、心悪きものなれば、石いもと言ひてかたしといろふ。大師たち去りて後食せんとせしに、石と化て歯もたたざりし故、この池へ投捨たり。其より年々芽を生じ今に至りて絶えずと。余児と来り見しに疑はしきまま二三株を抜て見るに、石にはあらず、ただの芋なり。案内せる小女顔色をかへて恐懼し神罪を蒙らんと言ひたるまま、もとの如く栽へ置たり。芋は水に生じぬものと思ふに、一種水に生じる物有にや。年々旧根より芽を出しぬるも珍らし。或書には是をいも神と言へり」(成田道の記、文政13年[1830年])

ここ佐倉道での弘法大師の面影は、真間の弘法寺とここ龍神社の2つだ。
中山法華経寺があるので日蓮の面影はそこかしこに見えたが。

さて、暫く進むと、佐倉道とR14との分岐となる。左が佐倉道。左に進むとすぐに左手にあかもん寺がある。

写真4:あかもん寺

あかもん寺.JPG

真言宗豊山派、龍王山海蔵寺大覚院。もとの西海神村と船橋海神の村境、現在の国道14号線海神三叉路際(海神6丁目1)にある。この寺は、天正17年(1589年)8月5日、権大僧都法印秀嚴和尚(慶長9年(1604年)8月13日寂)の創建と伝えられているが、「当時中興」と記録には残されており、実際の創建はこれより古いものと思われる。また、この秀嚴和尚の時代に山号・寺号を改め、あるいは宗派をも改め、寺観を一新したのではないかとも考えられている。明治維新の際此の寺附近の地は脱走兵の拠るところとなったが、幸にして此の寺は兵火に焼かれなかった。

更に進み、陸橋の手前の側道(右側)を入ると式内元宮入日神社がある。

写真5:式内元宮入日神社 新参道から

武内本宮入日神社.JPG

当町鎮守「式内元宮入日神社」は皇統第十二代景行天皇の王子日本武尊が東夷御征討の砌り伊勢湾方面より海路を利用し先づ上総の国に上陸、ついで軍団は上総の国を出帆せられ、下総の国に入るに及んでこの地に上陸された。上陸地点は現在地に当ると伝へられている。その後村人によって日本武尊の上陸を記念し且つその御偉徳を偲び併せて郷土守護五穀豊饒、豊漁の神として社を建立し崇拝して来たのが即ち入日神社である。祭神が天照大神と日本武尊を祀り古くから船橋大神宮意富比神社の元宮と言ひ伝えられている。

日本武尊は、父景行天皇の夷狄討伐の命を受け海路船橋に到着し、漁師の澪筋の案内によりこの地に上陸した。日照り続きに葛飾野の敵に大変な苦戦をした。そこで夏見の高間原(タカマバラ 日枝神社周辺)で雨乞いの儀式を行なうと、たちまち黒雲が生じて海の方にたなびき、捨舟の中に光り輝いているものを発見した。早速漁師の舟に乗って行くと、八咫鏡(ヤタノカガミ)と同じ鏡が光っていた。尊はこの神鏡を持ち帰り、ここに宮を建てて祀った。この宮が入日神社という。この鏡は現在船橋大神宮(意富比神社)に移され、入日神社は大神宮の元宮とされている。

この神社旧地は今の社地の前面で、参道は海神澪に続き、境内には池もあり、樹々が繁り遥か海が見渡すことができたという。海神澪には昭和30年頃まで多くの船を泊していた。明治27年に開通した総武鉄道が参道を遮り、更に昭和12年の14号線建設により移転の問題が発生した。しかし社の北側の地主である矢作新兵衛と元橋三蔵が自分の土地の提供を強く申し出たことにより、北側に少しずらすということで決着し現地点の場所となった。しかし国道の高い土手により境内は道路下になり、眺望をさまたげ、道を通る人も気付かない状況となってしまった。

写真6:式内元宮入日神社 元参道から

武内本宮入日神社 (2).JPG

日本武尊上陸の伝説は木更津にある。そこを中堅地点に再び海路でここ船橋に来たのか、ある程度陸路を行き来たのか。今度調べてみようと思う。

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_意富日神社 旧地.jpg

これで、佐倉道の市川から船橋、成田道行徳ルートとの交差点までは終わりにする。佐倉道の船橋以降は又の機会に。

以上
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2010年08月19日

47.佐倉道(中山競馬場入り口〜西海神)

前回の続き。

古作道(宝成寺の道)の少し先に葛飾神社がある。

写真1:葛飾神社

葛飾神社.JPG

祭神は瓊々杵尊、彦火々出見尊、熊野大神。風光明媚景勝の地、勝間田の池(現 勝間田公園)のほとり丘の上、熊野大権現の此の地に、大正五年一月十三日一郡総社葛飾大明神を千葉県東葛飾郡葛飾村本郷141番地(現船橋市文化財、葛羅の井戸、(昔、葛飾大明神御手洗の井戸))の西側台地より此の地に奉遷奉斉し、熊野権現社へ合祀し村社葛飾神社と改称し現在に至る。

直ぐ隣に勝間田公園がある。昔ここは葛飾川の谷口に作られた溜池で、南部低地の水田の田水を確保してきた。地元は「昔日蓮上人が房州からきて、この土地から船にのって鎌倉に行った」とする。前回紹介した二子の二つの池と同じだ。奈良にある勝間田の池は万葉集に詠まれたが、佐倉道を通る人々が、万葉のこの歌にある勝間田の池をこの池に投影し、勝間田の池と呼ばれるようになったのか。

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_勝間田池.jpg

『万葉集』かつまたの池はわれしるはちなししかいふ君が髭なきがごと 新田部親王

左下に見えるのが葛飾神社(当時は熊野神社)。手前から奥に続く道が佐倉道。

勝間田の池を過ぎて直ぐの道を左に入るとY字路になっていてその分岐点に庚申塔がある。

写真2:西船庚申塔

西船庚申塔.JPG

このY字路を左に入り、そのまま道なりに進むと先の古作道に出る。古作道の向かい側に続きの道があるのでそこに入り、そのまま進むと突き当るが、そこに庚申塔を見つけた。

写真3:西船庚申塔A

西船庚申塔 (3).JPG

期待していないところにこのような歴史に触れると非常に嬉しい。又、庚申塔があるということは旧道ということ。改めてこの辺りの道を見てみると、旧道と思われる道ばかり。今回のサイクリングでは一部しか回れていない。全部回ったら庚申塔や道標、馬頭観音など多く見つかるのではないか。今度トライしてみたい。

さて、道を戻り、更に先に進むと、左手に春日神社がある。

写真4:西船春日神社

春日神社.JPG

春日神社は印内町の産土神で、創祀は不詳だが享保十年(1725年)の「下総国葛飾郡印内村屋敷地押帳」に見える外、享保二十一年(1736年)の「春日大明神宮御報謝氏子日記」が残されている。祭神として、古来藤原氏の氏神である中臣の祖 天児屋根命をはじめ香取、鹿島の神などを勧請した春日四所明神を奉斎し、印内町の本来の氏神として尊崇されている。明治四十二年に熊野社と駒形社を合祀した。

暫く進むと左手に山野浅間神社がある。

写真5:山野浅間神社

山野浅間神社.JPG

此の神は、奈良平安時代から、山野浅間神社と稱する一宇の祠は、駿河の國富士浅間社勸請で木花咲耶姫を奉祀して、縁結び、安産、子育ての神として近郊近在の尊詣頗る厚く、毎年七月一日の山開きには、お禮詣り善男善女が列をなし登山参拝して大賑わいであったと傅へ現在もその隆盛を誇ってゐる。山野浅間神社の名が廣く世に知られる所以である。爾来、嘉永三年(1850年)に神殿として造営され、昭和四十七年七月に増改築が行はれ間口四間三尺奥行七間三尺に及ぶ新社殿となった。地方の信仰の中心である由緒深き霊地を、有るが儘に任せるには偲びず、御許を仰ぎ古き祠が鎮座してゐたといふ因縁の地を探し求め、此の神殿を建立寄進したしだいである。入神の儀を行ひ、末永く霊験灼かに若き男女に縁結び、安産、子育て、旅の安全の幸を授け給へと祈りその由来を誌すものである。

今日はここまで
posted by Yogi at 23:19| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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