2010年07月31日

44.佐倉道(中山法華経寺)

前回の続き。

安房神社を背に真っ直ぐ進むと中山法華経寺の仁王門に出る。

日蓮はその布教活動の中で幾度と無く迫害を受けたが、下総千葉氏の家臣であった富木常忍と太田乗明はこれを自分達の所領のある八幡荘に暖かく迎えた。富木は日蓮のために所領の若宮に寺を造営(法花寺(法華寺とも))し、隣の中山の領主であった太田も自家の持仏堂を寄進した(本妙寺)。特に富木は千葉氏の文吏としても活動していたために日蓮に紙筆を提供し、その執筆を助けた。日蓮の遺文が同寺に多く遺されているのはその縁であると言われている。日蓮死後に富木は出家して法花寺初代住持・常修院日常となった。後に八幡荘を支配した千葉胤貞(九州千葉氏の祖)の帰依を受け、猶子の日祐を3代目住持として本妙寺・法花寺両方の住持を兼ねた。だが、折りしも千葉氏が分裂して胤貞系は下総から駆逐されて肥前国へと追いやられる事になる。だが、日祐は室町幕府との関係を強めてこの危機を乗り切り、後にここを拠点とする中山門流が成立する事になった。以後、代々の住持は本妙寺と法花寺両方の住持を兼務する慣わしとなっていたが、天文14年(1545年)古河公方足利晴氏より「諸法華宗之頂上」という称号が贈られて、この時に初めて法花・本妙両寺を合わせた呼称として「法華経寺」という寺名が誕生したとされている。以後、両寺は事実上統合され、「法華経寺」という一つの寺院として認識されるようになっていった。

写真1:中山法華経寺 仁王門

中山法華経寺 仁王門.JPG

写真2:中山法華経寺 参道

中山法華経寺 参道.JPG

境内に入り正面に五重塔。建築年代は江戸時代の元和八年(1622年)、構造形式は三間五重塔姿、瓦棒銅板葺。この五重塔は本阿弥光室が両親の菩提を弔うために、加賀藩主前田利光公の援助を受けて建立したもの。

前田家が登場してくるとは。。。流石は中山法華経寺。

写真3:中山法華経寺 五重塔(国指定重要文化財)

中山法華経寺 五重塔.JPG

その手前左手に祖師堂。祖師堂は宗祖日蓮聖人をお祀りするお堂で、最初は鎌倉時代の正中二年(1325年)に上棟した小規模な五間堂だった。その後、焼失などにため数回の再建があり、現在の祖師堂は江戸時代中期の延宝六年(1678年)に上棟されたもの。建物は大規模な七間堂で、屋根を二つ並べたような比翼入母屋造の形式を持つのが特徴。このお堂の他に比翼入母屋造の屋根を持つのは全国でも岡山県にある吉備津神社本殿(国宝)だけ。

写真4:中山法華経寺 祖師堂(国指定重要文化財)

中山法華経寺 祖師堂.JPG

石畳に従い歩を進めると右手に中山大仏。享保4年(1719年)、法華経寺第59世日禅上人のときに江戸神田鍋町の鋳物師太田駿河守藤原正義によって鋳造された。大きさは身の丈1丈6尺(約4.8m)、台座2間半(約4.5m)といわれている。

写真5:中山法華経寺 釈迦如来坐像(中山大仏)

中山法華経寺 釈迦如来坐像.JPG

そのまま祖師堂を右から回り込むように進むと右手に本院。

写真6:中山法華経寺 本院

中山法華経寺 本院.JPG

本院に向かう途中左手に荒行堂

写真7:中山法華経寺 荒行堂

中山法華経寺 荒行堂.JPG

道を戻り祖師堂の裏を回り込むように進むと、左から、本行院、刹堂、法華堂、宇賀神堂、太田稲荷神社がある。

写真8:中山法華経寺 本行院

中山法華経寺 本行院.JPG

写真9:中山法華経寺 刹堂

中山法華経寺 刹堂.JPG

写真10:中山法華経寺 法華堂

中山法華経寺 法華堂.JPG

桁行五間、単層入母屋造、銅板葺、文応元年(1260年)の創建。日蓮聖人自ら一尊四菩薩を開眼安置す。百日百座説法の霊跡である。(国指定重要文化財)

その法華堂の門、四足門が又重文。

写真11:中山法華経寺 法華堂 四足門

中山法華経寺 四足門.JPG

隣に宇賀神堂

写真12:中山法華経寺 宇賀神堂

中山法華経寺 宇賀神堂.JPG

その奥に太田稲荷神社

写真13:中山法華経寺 太田稲荷神社

中山法華経寺 太田稲荷神社.JPG

境内入り口の方に進むと途中に右に折れる道、そこに龍王池

写真14:中山法華経寺 龍王池

中山法華経寺 龍王池.JPG

元に戻り境内入り口に進むと途中に妙見堂

写真15:中山法華経寺 妙見堂

中山法華経寺 妙見堂.JPG

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_妙法華経寺.jpg

黒門、仁王門、五重塔に祖師堂、本院、祖師堂の裏手山にいくつかの建物、今と同じレイアウト。面白い。

境内入り口から横の道に出られる。そこで境内から出て、奥之院に向かうが、今日はここまで。
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43.佐倉道(鬼越〜中山)

前回の続き。

東昌寺を過ぎ、真間川を渡り、市川鬼越郵便局を過ぎて直ぐのところを左に折れる。暫く行くと左手に神明寺がある。

写真1:神明寺

神明寺.JPG

真言宗豊山派、本尊は不動明王、寺宝は元和二年(1616年)作阿弥陀如来、鬼越山と号し、元和二年(1616年)日意の開基。

そのまま進み京成本線の踏切を渡ると鬼越神明社がある。

写真2:鬼越神明社

鬼越神明社.JPG

古老の口碑によれば約七百年前より鬼高村に鎮座ましました。境内には元和二年(1616年)伊勢の皇太神宮より遷座されたとの石碑がある。現在の社殿は明治年間の造営である。境内には道祖神(耳の神様)、天神様(学問の神様)、お諏訪様(商売の神様)、与力与直(鎮世)、浅間神社(冨士信仰)があるが、これは大正年間の区画整理のため、村内に散在した神社をお遷したものである。

佐倉道に戻り進むと、常開寺がある。

写真3:常開寺

常開寺.JPG

日蓮宗 法華経寺末、塚原山(ちょうげんさん)と号し、応安七年(1374)法華経寺三世日祐上人の開基。本尊は、釈迦如来と多宝如来。

暫く進むと木下街道。佐倉道と木下街道のT字路には古い民家が。
ここ木下街道は、銚子で水揚げされた魚を行徳を経由して江戸に運ぶ為の道。利根川の木下河岸へ続く道の為、木下街道。かつては銚子道と呼ばれていた。

木下街道に入ってすぐの左手に高石神社がある。

写真4:高石神社

高石神社.JPG

社伝に、南総大多木城主正木内膳亮時総が故あって奇石を得、これを祭ったので高石神と称したとある。また往古、鬼越村と一村であったが、分村して神号を村名としたという。本社の創建年代は不詳であるが、「中山法華経寺文書」永享三年(1431年)十二月二十四日の条と「折伏正義抄」永享十年(1438年)の条に当社の記載あり、その創建はこれ以前である事は分明である。

高石神社は江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_高石明神社.jpg

京成本線を渡ってすぐを右に入る。この旧道を進むと泰福寺がある。

写真5:泰福寺

泰福寺.JPG

更に進むと安房神社がある。

写真6:安房神社

安房神社.JPG

御祭神 國常立命、里見安房守、大宮大権現、山王大権現。御沿革 本社は江戸時代の諸書に「安房の須明神」または「安房の須祠」として記載されている。なかでも江戸名所図会には「安房須明神社」として[中山の北、池田というより北の岡にあり]と書かれ、挿絵を載せている。はじめに祀られた場所は中山村中山字砂原(現在の中山小学校敷地内)で、明治四十二年一月十二日、同敷地内にあった妙見社境内(御祭神、國常立命)に移され、妙見社を合祀しました。さらに大正四年政令によって大宮大権現(中山四丁目・旧中山五〇三番地)、山王大権現(中山三丁目・旧中山三六九番地)を合祀して現在地に建立された。

千葉県神社名鑑には「創建等不詳だが、[快元憎都記]天文六年の条に当社のことを記述す。」とあるので天文六年(1537年)以前の創建といえる。

江戸名所図会には、安房須明神社 同所中山の北池田といふより北の岡にあり。伝へ云ふ、里見越前守忠弘の息男里見長九郎弘次の墓なりといへり。今淡島明神とす。(今猶塚の形を在せり。)

ここから先は中山法華経寺。写真が多いので今日はここまで。

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42.佐倉道(菅野〜八幡)

前回の続き。

佐倉道を東に進む。

本八幡の駅を過ぎると左手に鳥居が。ここ佐倉道 市川〜海神のメイン2つ目、葛飾八幡宮である。(1つ目は言ってなかったが真間)

写真1:葛飾八幡宮 隋神門

葛飾八幡宮山門.JPG

明治維新以前は、天台宗上野寛永寺の末寺、八幡山法漸寺の仁王門だったが、神仏分離によって当宮の隋神門に。両裾に位置する隋神(右大臣・左大臣)のある場所には仁王像があったが、現在は行徳の徳願寺に遷されている。和様、木造単層切妻の構造をもち、屋根はかつて茅葺だったが、現在では銅葺。三間一戸、丹塗されており、桁行一〇・三六メートル、梁間四・四五メートル。(平成十四年八月、塗替修復工事竣功)

境内に入る。左手に神楽殿。大絵馬が公開されている。

写真2:葛飾八幡宮 神楽殿 大絵馬

葛飾八幡宮神楽殿大絵馬.JPG

幕末に奉納されたもので、葛飾八幡宮の御祭神である神功皇后の新羅出兵を描いたもの。神功皇后は右から2番目。中央には皇后の臣下である武内宿禰(たけのうちのすくね)が描かれ、また皇后の胎内には葛飾八幡宮の主祭神である応神天皇(八幡様)が宿られていると神話(古事記・日本書記)は伝えている。

中央に本殿

写真3:葛飾八幡宮 本殿

葛飾八幡宮本堂.JPG

創建は平安朝の昔、寛平年間(889〜898年)宇多天皇の勅願により下総の国総鎮守八幡宮として御鎮座、以来歴朝の御崇敬篤く、代々の国司・郡司をはじめ、国民の信仰深く、下総の国における葛飾文化、八幡信仰の中心となった。とりわけ平将門の奉幣、源頼朝の社殿改築(治承四年(1180年)武運長久を祈り、建久年中(1190〜99年)には千葉常胤に命じて社殿等の造営修復)、太田道灌の社壇修復(文明11年(1479年)に臼井城(現佐倉市)の千葉孝胤攻略に際し同社に祈願し、社殿修理を行っている。)、徳川家康の御朱印地社領五十二石の寄進(天正19年(1591年))等その尊信は篤いものがあった。また、御主神應神天皇の御事蹟により、文教の祖神、殖産興業、殊に農業守護の神として近郊の信仰をあつめている。毎年九月十五日のご例祭日より二十日まで、広大な境内で催される農具市の盛況さは、古来より関東一。

本殿奥に千本公孫樹がある。

写真4:葛飾八幡宮 千本公孫樹

葛飾八幡宮大銀杏.JPG

多数の樹幹が寄り集まって、まるで根本から一本の大樹が伸びているように見えるところから、千本公孫樹の名で呼ばれる。古くから有名で、江戸名所図会には「神前右の脇に銀杏の大樹あり神木とす。」とあり、さらに「此樹のうつろの中に小蛇栖めり、毎年八月十五日祭礼の時、音楽を奏す。其時数万の小蛇枝上に顕れ出づ。衆人見てこれを奇なりとす。」とある。
樹高22m、根廻り10.2m、目通り10.8mで、根廻りより目通りの太くなっているのも特徴の一つ。

その、江戸名所図会

江戸名所図会_八幡不知森 八幡 八幡宮.jpg

手前の道が佐倉道、参道を左に折れると葛飾八幡宮。そのT字路に藪知らずが見える。参道を進むと右手にドーナツのような池がある。厳島神社だ。隋神門も本殿も見える。今と同じレイアウト。面白い。

葛飾八幡宮の右奥に、葛飾天満宮をメインとした色々な神社が集まっている森がある。

写真5:厳島神社

厳島神社.JPG

写真6:葛飾天満宮

葛飾天満宮.JPG

写真7:葛飾天満宮 石塔群

葛飾天満宮庚申塔等.JPG

木漏れ日が当たり良い雰囲気だったので庚申塔のみアップで

写真8:葛飾天満宮 庚申塔

葛飾天満宮庚申塔.JPG

佐倉道に戻る。

直ぐ、八幡 不知森神社がある。

写真9:八幡 不知森神社

不知森神社.JPG

ここは面白い話がいくつも残っている。江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くに、ここ八幡では「藪知らず」のことを載せている。

「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かず。」
「藪の間口漸く十間(約18メートル)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹藪にして、細竹・漆の樹・松・杉・柏・桑の樹などさまざまの雑樹生じ...」

どれもが、この藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこれないところ、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られていた。

入ってはいけない理由について、

●最初に八幡宮を勧請した旧地である。
●日本武尊が陣所とされた跡である。
●貴人の古墳の跡である。
●平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。
●平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。

と、いろいろ言われてきたが、中でも万治年間(1658〜61年)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まった。

佐倉道を進む。左手に東昌寺がある。

写真10:東昌寺

東昌寺.JPG

船橋市にある宝成寺の末。曹洞宗、浅間山と号する。天正年間(1573〜92年)に大誉和尚が開基。創建当時は現在の八幡六丁目富貴島小学校付近にあったが、寛永元年(1624年)に第三世万明和尚が現在地に移した。

参道入り口になんとなく写真を撮りたくなった石塔がある。

写真11:東昌寺 石塔

東昌寺_石標.JPG

中国っぽい。今日はここまで。
posted by Yogi at 10:10| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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