2010年07月25日

40.佐倉道(弘法寺〜国分〜佐倉道)

前回の続き。

弘法寺と千葉商科大学の間の道を北東に斜めに行く道、恐らく旧道を進む。
小高い山をぐるっと回り込むように登るとそこに下総国分寺がある。ここは、下総国分僧寺跡。現在は、国分山国分寺という真言宗豊山派の寺である。

写真1:下総国分寺 南大門

下総国分寺南大門.JPG

写真2:下総国分寺 本堂

下総国分寺本堂.JPG

国分寺及び国分尼寺は、聖武天皇の詔によって一国に一寺建設されたもの。
然し、突然に国分寺建立の詔が出された訳ではなく、国家仏教の推進施策の一環として行われた種々指示の総仕上げとして、国分寺建立の詔が出されたと理解する方が正しいようだ。仏教振興策に関する大まかな出来事を簡単に纏めると、以下のようになる。

天武14年(685年)3月:
 諸国に仏舎を造り、仏像や経を礼拝せよとの詔が出される
持統7年(693年)10月:
 諸国で仁王経を講じさせ、翌年金光明経百部を全国へ配布する
神亀5年(728年)12月:
 金光明経を再び全国へ配布する
天平9年(737年)3月:
 釈迦仏像と挟持菩薩を造り、大般若経を写経せよとの詔が出される。
天平13年(741年)3月:
 国分寺(国分僧寺、国分尼寺)造営の詔が出される

尚、実際にはこの一度の詔では、財政的に疲弊した地方国司を動かすことは出来ず、

天平16年(744年)
 諸国国司に対する国分寺・国分尼寺建立の督促
天平19年(747年)
 国司の怠慢を批判する文書
天平勝宝8年(756年)
 聖武天皇崩御に伴う一周忌に間に合うように建立せよとの督促
天平宝字3年(759年)
 国分寺・国分尼寺図面の配布

などが次々と出されていることから、地方での建立は全く順調ではなかったことが判る。

【国分寺造営の詔、続日本紀(現代語訳)】

三月二十四日、天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしひらきとよさくらひこのすめらみこと、聖武天皇のこと)は次のように詔しました。

朕は徳の薄い身であるが、忝けなくも重任を受け継ぎ、まだ民を導く良い政治を広める事が出来ず、寝ても覚めても恥じることが多い。しかし古来よりの名君は皆祖先の仕事をよく受け継ぎ、国家は安泰で人民は楽しみ、災害無く幸いが齎されてきた。どのような政治を行えばこのような統治が出来るのであろうか。このごろは田畑の稔りも豊かでなく、疫病も多い。それをみるにつけ、我が身の不徳を恥じる気持ちと恐れとが湧き上り、心を痛め自分を責めている。

そこで広く人民の為に普く大きな福があるようにしたい。先年駅馬の使を遣わして全国の神宮を修造し、去年は全国に一丈六尺の釈迦仏一体を造らせると共に大般若経を写させたところ、秋の収穫まで風雨が順調で五穀もよく稔った。これは真心が伝わった為で、不思議な賜り物があったというであり、恐ろしくもあり驚きでもあり、自分でも心が安まらない。そこで、経文を考えるに、金光明最勝王経には、「国内にこの経を講義したり読経暗誦したり、恭しく供養し、流布させれば、一切の災いは消滅し、憂愁や疾病も除去されるであろう。願いは心のまま、いつも喜びが訪れるであろう。」とある。

そこで、全国に七重の塔一基を造営し、会わせて金光明最勝王経と妙法蓮華経を書経させることとする。また、朕は別に金光明最勝王経を写経し、七重の塔毎に一部を置くこととする。仏法が盛んになり、天地に永く伝わり、四天王のご加護を死者にも生者にも届かせて、常に十分であることを願おうと思う。そもそも七重の塔を建造する寺は国の華であり、必ずよい場所を選んで真に永久足らんとしなくてはならない。人家に近くて悪臭が及ぶのは良くないし、遠くては集まる人々が疲れるので良くない。国司は国分寺を厳かに飾るよう努め、清浄を保つように。間近に四天王を感嘆させ、四天王が望んで擁護されるように請い願いなさい。遠近に布告を出して、朕の意向を人民に知らせなさい。また、国毎に建てる僧寺には、封戸五十戸、水田十町を施し、尼寺には水田十町を施せ。僧寺には必ず二十人の僧を住まわせ、寺の名は金光明四天王護国之寺としなさい。尼寺の尼は十人とし、寺の名は法華滅罪之寺としなさい。両寺ともに僧尼は受戒し、欠員があれば速やかに補充しなさい。僧尼は毎月八日には必ず金光明最勝王経を転読し、月の半ばには受戒の羯磨を暗誦し、毎月六斎日には公私共に殺生をしてはいけない。国司は宜しく常に検査をしなさい。

江戸名所図会

江戸名所図会_国分寺.jpg

国分僧寺に来たので尼寺にも足を延ばすことにした。市川市の案内板に従い、畑の間の道を行く。すると、天満宮があった。

写真3:国分天満宮

国分天満宮.JPG

ここ市川は天神様が多いような気がする。真間稲荷も菅公を祀っていた。
暫く進むと小さな祠が。覗いてみると、庚申塔があった。

写真4:北台庚申塔

北台庚申塔.JPG

少し進むと北台庚申堂という一角があり、庚申塔がある。

写真5:北台庚申堂 庚申塔

北台庚申堂.JPG

右側面に、右大はし道、左側面に、左まつさと道と彫られている。(恐らく)
左に進むと国分尼寺跡がある。

写真6:下総国分尼寺

下総国分尼寺跡.JPG

下総国分僧寺まで戻る。国分寺の道路を挟んで向かいに、宝珠院がある。

写真7:宝珠院

宝珠院.JPG

宝珠院の脇の道を東に進む。一つ目の左に折れる道を行くと正面に鎮守の森、国分日枝神社がある。

写真8:国分日枝神社

国分日枝神社.JPG

直ぐ隣に龍珠院

写真9:龍珠院

龍珠院.JPG

インターネットで調べるも、3つとも情報が無い。
宝珠院脇の道に戻り東に進むと経王寺がある。門戸が開いておらず妙な写真となってしまった。

写真10:経王寺

経王寺.JPG

そのまま道を進むと坂を下ることになる。つまり、下総国分寺に行く時上がりここで下がるということはここまでが台地であったということである。坂を下りきると県道264線に出る。左に折れ暫く行くと、竺園寺がある。

写真11:竺園寺

竺園寺.JPG

インターネットで調べるも情報無し
県道264線を佐倉道に向かい進む。すると真間川の手前、須和田の地に六所神社がある。

写真12:六所神社 石塔

六所神社石塔.JPG

神社入り口にある平成8年の由緒によると、今を遡ること1881年前、平成8年は1996年なので西暦115年になるが、景行天皇の詔によって、

大己貴命
大日靈女貴命
伊弉那岐命
素戔嗚命
瓊瓊杵尊
大宮姫命

の六神を祀った宮と伝えられ、国府台字府中の六所の森、現在のスポーツセンターの北に鎮座していたとのこと。その後、下総の国の総社として国守により祭礼がおこなわれてきたが、戦国時代には里見氏、北条氏、千葉氏の守護を受け、江戸時代には、徳川から朱印を賜り篤く崇敬されていた。明治19年、国府台字府中の六所の森が軍用地になった為、ここ須和田に移転となった。

写真13:六所神社 境内 天津神塔道標

六所神社天津祖太神道標.JPG

右側面に、右みやくぼ、左いちかわと彫られている。

県道264線をそのまま進み、佐倉道に出た。(新田5丁目T字路)

続きは次回
posted by Yogi at 10:41| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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