2010年07月22日

39.佐倉道(弘法寺参道〜弘法寺)

前回の続き。

弘法寺の参道、大門通りを行く前に、参道を過ぎJR市川駅入り口の交差点を左に行くと、市川八幡神社がある。

写真1:市川八幡神社

市川八幡神社.JPG

この神社は今から百五十年前千葉街道の名松(三本松)の根本に郷土の産土神として祭祉されていたが、第二次世界大戦中、道路拡張の為内務省の命によりこの地に移遷され現在に至る。

弘法寺参道に戻る。壁や電柱、店先に、万葉集の歌や近隣住民の歌が掲げられている。京成本線を過ぎると直ぐ真間川を渡る。真間川を渡ると直ぐに真間の継橋がある。

写真2:真間の継橋

真間の継橋.JPG

その昔、市川北部の大地とその南に形成された市川砂洲との間には、現在の江戸川へ流れ込む真間川の河口付近から、東に入って奥深い入り江ができていた。この入り江を「真間の入り江」と呼び、手児奈の伝説と結びつけて伝えられた。「片葉(かたは)の葦(あし)」やスゲ等が密生していた。

国府台に下総国府の置かれたころ、上総の国府とをつなぐ官道は、市川砂洲上を通っていた。砂州から国府台の台地に登る間の入江の口には幾つかの洲ができていて、その洲から洲に掛け渡された橋が万葉集に詠われた「真間の継橋」なのである。

【万葉集】
足(あ)の音せず行かむ駒(こま)もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ

葛飾の真間の手児名が奥津城をこことは聞けど真木の葉や

吾も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥津城処

葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ

勝鹿の真間の手児名が麻衣に青衿着け直さ麻を裳には織り着て

勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ

葛飾の真間の継橋夏近し二人わたれりその継橋を

葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花

葛飾の真間の浦廻をこぐ船の船人騒ぐ波立つらしも

葛飾の真間の手児奈がありしかば真間のおすひに波もとどろに

真間の継橋を渡りすぐ右側に手児奈霊堂の参道がある。

広重も描いた。

広重_真間の紅葉手古那の社継橋.jpg

【手児奈伝説】
むかしむかしの、ずっとむかし「手児奈」という美しい娘がいました。上品で、満月のようにかがやいた顔は、都の、どんなに着飾った姫よりも、清く、美しくみえました。

その美しい手児奈のうわさはつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にもひろまっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやってきては、結婚をせまりました。しかし、手児奈はどんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。

それをみた手児奈は、 「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」 といいながら、真間の入江まできたとき、ちょうど真っ赤な夕日が海に落ちようとしていました。

それをみて、 「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」 と、そのまま海へはいってしまったのです。

追いかけてきた男たちは 「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」 と思いましたが、もう、どうしようもありません。

翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、手厚くほうむりました。

写真3:手児奈霊堂 参道

手児奈霊堂参道.JPG

写真4:手児奈霊堂 本堂

手児奈霊堂 本堂.JPG

写真5:手児奈霊堂 池

手児奈霊堂 池.JPG

この池は、真間の入り江の名残と言われている。
手児奈霊堂は、文亀元年(1501年)に、弘法寺第七世日与上人が世に広めた。

手児奈霊堂の右側敷地には、真間稲荷神社がある。

写真6:真間稲荷神社

真間稲荷神社.JPG

創建年は不明も、万延元年に再建の記録が残る。

手児奈霊堂 本堂左脇を抜け道に出るとそこには亀井院がある。

写真7:亀井院

亀井院.JPG

1638年(寛永15年)頃、弘法寺の第十一世住職である日立上人が貫主の隠居寺として建てたという。 古くは清水が湧いていたことにちなんでか瓶井院、瓶井坊とも呼ばれ、真間山弘法寺の子院のひとつであった。後に弘法寺の大檀那、鈴木長常を葬った際、鈴木院と改称した。江戸時代には、江戸幕府作事奉行鈴木長頼が亀井院を修造したという。

鈴木長常の息子である鈴木長頼が1705年(宝永2年)に、日光東照宮の石を亀井院の石段に流用したかどで幕府に咎められ切腹した後、当時亀井と呼ばれていた真間の手児奈にちなみ、亀井院と改称した。その後、1916年(大正5年)5月から6月頃まで北原白秋がこの寺の庫裏に住んでいたこともある。

亀井とは、井戸に霊亀が出現するという伝説から来ている。
境内にある真間の井は、万葉集にも詠まれた真間の手児奈が水を汲んだ井戸と伝えられている。

写真8:真間の井

亀井院 真間の井.JPG

亀井院の前の道を、亀井院を正面に見て左に行くと、真間山弘法寺の石段前に出る。石段を上がると仁王門がある。

写真9:弘法寺 石段

弘法寺 階段.JPG

写真10:弘法寺 仁王門

弘法寺山門.JPG

写真11:弘法寺 伏姫桜

弘法寺 伏姫桜.JPG

ここ真間山、弘法寺(ぐほうじ)は奈良時代、天平九年(737年)、行基菩薩がこの地にお立ち寄りになられた折、里の娘、手児奈の哀話をお聞きになり、いたくその心情を哀れに思われ、一宇(いちう)を建てて「求法寺(ぐほうじ)」と名づけ、手厚くその霊を弔われた。

それからおよそ百年ほど経た平安時代、弘仁十三年(822年)に弘法大師(空海)が教えを弘められるためにおいでになられた時、求法寺を七堂伽藍に再建され、寺運を一新して、「求法寺」を「弘法寺」と改称された。

その後、鎌倉時代に入り、建治元年(1275年)に、時の住持、了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)と、中山法華経寺、富木常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられた。

その結果、日頂上人が法論に勝たれたため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることとなった。

当山は元亨三年(1323年)に千葉胤貞公(ちばたねさだこう)より寺領の寄進を受け、天正十九年(1591年)に徳川家康公より御朱印状を賜り、元禄八年(1695年)には水戸黄門公が来詣された折、茶室を賞(め)でて「遍覧亭(へんらんてい)」と称された。

明治二十一年(1888年)火災のため、全山、悉く灰燼(かいじん)に帰し、現在の諸堂は明治二十三年(1890年)に再建されたものである。

江戸名所図会

江戸名所図会_真間 弘法寺.jpg

左手前から右奥への道が参道、参道の途中、右に折れた所に手児奈霊堂が見える。田んぼの真ん中にある。参道に戻り、少し進み右に入る道を右に行くと亀井院が見える。参道に再び戻ると弘法寺の石段が見える。その上に弘法寺。今とほぼ同じ位置関係だ。実に面白い。

今日はここまで
posted by Yogi at 23:07| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。