2010年07月17日

38.佐倉道(市川関所跡〜弘法寺参道)

佐倉道は、No.7と8で、新宿から小岩まで紹介した。
今回は、小岩と江戸川を挟んで繋がっている市川から海神までを紹介する。

まず始めに言っておきたいのは、この地域は神社仏閣や旧道が非常に多く残っている。GoogleMapsで確認できる神社仏閣や旧道を全部回ろうとすると、軽く三日は掛るだろう。今回は、神社仏閣は殆ど回ったが、旧道は一部のみとし、それでも二日掛かった。

佐倉道、現在のR14号自体は、何の風情も無いが、一歩高台に入ると非常に雰囲気が良い。近隣にお住まいの方は、是非、訪れて欲しいと思う。

スタートはここ。市川関所跡だ。

写真1:市川関所跡

市川関所跡.JPG

江戸時代以前の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。 奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌氏の宗長が、その時の紀行文『東路の津登(つと)』のなかで、市川に渡(わたり)があったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。

やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡場で旅人を調べる「定船場が設けられた。古くから渡があり、市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後に関所となった。

時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けられていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。

「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され、対岸の二村一対で1つの関所として定められていた。 そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。 幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。また、江戸時代を通じて、江戸川には橋が架けられなかったので、関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では、2〜3艘の船を用意し、川端に番小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていた。そのため「御関所附渡船之村方(おせきしょつきとせんのむらかた)」とも呼ばれた。

慶応から明治へと時代が変わった時、旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いの舞台となり、明治2年(1869年)に関所廃止令が出されて、その使命を終えてもなお、明治38年(1905年)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運航は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。

江戸名所図会の市川渡口 根本橋 利根川

江戸名所図会_市川渡口 根本橋 利根川.jpg

手前が小岩、奥が市川である。手前小岩側には関所らしき建物が見えるが、市川側には見当たらない。市川側にキャプションがついたところがあるが、判読できず。しかし、市川関所の左側、これは真間川ではなかろうか。その奥となると弘法寺がキャプションかもしれない。(調査を続けたい。)

市川関所から松戸街道に降りる道を下りると、その正面に春日神社がある。

写真2:春日神社

国府台春日神社.JPG

承応三年(1654年)九月十九日再建の記録の残る社であるが、創建については不明である。里見城の城下町であった当地の鎮守として尊敬され、今日に至る。

春日神社の脇の道を入るとその正面に安国院がある。

写真3:安国院

安国院.JPG

日蓮宗身延派の寺院。正和四年(1315年)松本坊日念上人の開基で、慶応年間(1865−68年)までは玉泉山長遠寺と号し、真間山弘法寺の院家の職にあったが、明治以降衰退の一途を辿りつつあった。第四十世玄静院日勇上人が、明治四十一年(1908年)住職就任以来、隆昌を迎え大正八年(1919年)墨田区から清正公堂を遷座してより、寺門の形態は一変し、今日に至っている。

安国院の前の道を、安国院を正面に見て右に進む。突き当りを右に折れるとバス通りに出る。バス通りを挟んで、玄授院と龍泉院がある。

写真4:玄授院

玄授院.JPG

日蓮宗。東光山と号する。正和三年(1314年)の創建といわれ、開山は伊予阿闍梨日頂、開基は東光院日属。古くは天台宗、浅草寺の末寺で東光院千福寺と号したが、正和三年日頂により改宗して寺号も改めた。弘法寺仮院と称し、三院の一つ。

写真5:龍泉院

龍泉院.JPG

インターネットで探すも情報無し。

龍泉院の脇の道をそのまま進む。大きな黒松が一つ聳えている。黒松は美しいと改めて思った。十字路を右に折れると、極楽寺と胡録神社がある。

写真6:極楽寺

極楽寺.JPG

真言宗豊山派。西照山と号する。永正二年(1505年)三月法印周慶の開基。当寺は第六天の別当寺で、寺地一反九畝三歩の境内を所有していたが、明治維新の戊辰戦争により堂宇を焼失したという。焼失前の堂宇は現在地よりやや左手にあったという。旧地には小学校や町役場が建てられたこともある。

写真7:胡録神社

国府台胡録神社.JPG

天保七年(1836年)に社殿改築の記録を残すものの、その創建は不明である。また、嘉永六年(1853年)の絵馬なども認められ、往時の信仰の篤さがしのばれる。

胡録神社を背に、右手に市川広小路の交差点。そこに観音寺がある。

写真8:観音寺

観音寺.JPG

真言宗豊山派。天宮山と号する。天正一七年(1362年)誉賢の開基になる。境内には里見氏の愛馬嵐瑠の墓や筆子中が建てた小日向東水の墓がある。寺の脇に庚申堂があり、庚申塔と道標を兼ねた石造物が祭ってある。舟形の石の正面に青面金剛像と三猿の浮彫があり、左側面に「これより行とくみち」、右側面に「安永三午天十一月吉日」と彫られている。

写真9:観音寺 庚申塔

観音寺庚申塔道標.JPG

格子扉に鍵が掛っており、格子の隙間からやっとこさ撮影。
確かに、この道はNo.佐倉道 行徳ルートの地図で紹介した市川広小路から稲荷木、行徳に抜ける旧道だ。左側面に、「これより行徳道」と彫られていることから方向は正しく、この庚申塔は建てられてから移動していないものと思われる。

佐倉道を東に進む。市川市市川公民館の脇の道、ここが弘法寺の参道、大門通りである。ここから弘法寺までは見所いっぱい。

次回に譲る。

以上
posted by Yogi at 20:18| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

37.佐倉道 行徳ルートの地図


より大きな地図で 成田道 行徳ルート を表示

明治初期の地図ではこの通り。

佐倉道 行徳ルート.JPG

市川からの佐倉道と、この行徳ルートを接続する道が3本ある。いずれも、行徳へ向かう道と云っても過言ではないだろう。それだけ、行徳が栄えていたといえる。

実際、江戸名所図絵も、船場、ちどり、汐浜、潮竃と4つも描かれている。どれだけ栄えていたか、と、いうことではないだろうか。

それが、今も見られるのは楽しい。

以上
posted by Yogi at 17:24| Comment(0) | 地図 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月14日

36.佐倉道 行徳ルート(原木〜海神+稲荷木)

前回の続き。

妙行寺を過ぎると直ぐに真間川。真間川を渡り暫く行くと京葉道路原木IC、それも過ぎると県道180号線との二股、右が県道179号線=佐倉道である。右に入ると直ぐに信号のある交差点。昔はここは交差点ではなくT字路、つまり二股だった。これがここの地名二俣の由来である。因みに、この道を行くと葛飾神社(熊野神社)と勝間田池のところに出る。

この二股に、庚申塔道標、馬頭観音石碑がある。

写真1:庚申塔道標

二俣庚申塔道標.JPG

右側面に、左舟ばしみちと彫られている。

写真2:馬頭観音石碑

二俣馬頭観音.JPG

左側面に、行徳藍問屋松丸善吉、二俣製塩業石井吉蔵と彫られている。この辺りも塩田だったか。古地図を見てみよう。

写真3:馬頭観音石碑 左側面

二俣馬頭観音 (2).JPG

二俣.JPG

やはりあった。因みに、二俣馬頭観音、二俣庚申塔道標の史跡ポイントの上に道が延びているが、それが先程の旧道。佐倉道に接続していて、接続地点に勝間田池があるのが見える。

それにしても、塩田の先は海だから、今の地図に海岸線を記してみるとこうなるが、相当埋め立てている。


より大きな地図で 成田道 行徳ルート を表示

直ぐ先に福泉寺がある。

写真4:福泉寺

福泉寺.JPG

行徳の地名の起りとなった修験者、行徳さまの草庵のあった行徳山金剛院から、亨保年間(1716〜1736年)に廃寺となったことで、この福泉寺に聖観音像を移した。

福泉時の道を進むと、池があり龍神宮がある。

写真5:龍神宮

龍神宮.JPG

インターネットで調べるも何も情報無し。

再び二股に戻り、勝間田池への道を進むと日枝神社と稲荷神社がある。

写真6:日枝神社

二俣日枝神社.JPG

写真7:稲荷神社

二俣稲荷神社.JPG

共に、情報無し。

再び二股に戻り、佐倉道を行く。京葉線を越え、総武線の少し手前、マンション前の敷地の端に、ひっそりと馬頭観音石碑がある。この道が佐倉道であることを物語っているかのよう。

写真8:海神馬頭観音

海神馬頭観音.JPG

直ぐに道は総武線脇の道に出る。右に折れ、暫くは線路沿いに行く。海神町西、海神町東、海神町に入った二股を左に折れる。総武線の高架をくぐると、市川からの佐倉道と合流する。合流地点に、念仏堂がある。

写真9:念仏堂

海神念仏堂.JPG

開基は不明も、墓地に慶安4年(1651年)の墓もあることから、創建はかなり古いと言われている。元禄年間には、神田の高麗屋佐次右衛門が観音堂を寄進し、芝増上寺の祐天上人の強化によって浄土宗で院の体をなしたものと云われている。しかしその後は、単に信者が集まって念仏を唱える場所になり、現在に至っている。堂内に安置されている阿弥陀如来立像は平安時代の作。

写真10:観音堂

海神観音堂.JPG

元禄14年(1701年)に、神田の高麗屋佐次右衛門が建立寄進した。この高麗屋佐次右衛門、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正に連れてこられた人物の子孫とのこと。

又、境内には、元禄7年と彫られた成田道道標がある。右市川、左行徳と彫られている。

写真11:念仏堂 成田道道標 正面

海神念仏堂成田道道標 (3).JPG

写真12:念仏堂 成田道道標 右側面

海神念仏堂成田道道標 (4).JPG

写真13:念仏堂 成田道道標 左側面

海神念仏堂成田道道標.JPG

写真14:念仏堂 成田道道標 裏面

海神念仏堂成田道道標 (2).JPG

これでひとまず佐倉道の行徳ルートは終了。帰りは佐倉道を市川方面へ。鬼越から田尻に抜ける旧道で戻り、稲荷木に寄った。

写真15:稲荷木稲荷神社

稲荷木稲荷神社.JPG

天正元年(1573年)創建

写真14:雙輪寺

雙輪寺.JPG

龍頭山龍厳寺と稲荷山福王寺が、江戸川放水路開削の為、合祀した。龍頭山龍厳寺は宝徳元年(1449年)養誉法印の開基、稲荷山福王寺は永享3年(1431年)康信僧都の開基で行徳一の古刹。

以上
posted by Yogi at 23:55| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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