2010年07月29日

41.佐倉道(新田〜菅野)

前回の続き。

佐倉道に戻り少し戻ると、新田春日神社がある。

写真1:新田春日神社

新田春日神社.JPG

万治元年(1658年)に再建の記録を残す社であるが、それ以前については不明。

暫く進むと新田胡録神社がある。

写真2:新田胡録神社

新田胡録神社.JPG

承応二年(1653年)九月一九日再建の記録のある社であるが、それ以前については不明。境内入り口の脇に斜めになって今にも倒れそうな庚申塔もあった。

写真3:新田胡録神社 庚申塔

新田胡録神社庚申塔.JPG

少し行くと京成菅野駅入り口の標識が。そこを左に入る。直ぐ左手に鎮守の森。平田諏訪神社だ。

写真4:平田諏訪神社

諏訪神社 (2).JPG

往昔、信州諏訪明神を勧請。戦国のころ平田左衛門尉胤俊の尊崇厚く、また古来村中総持として住民に信仰される。昭和三年七月二七日指定村社となる。

それにしても黒松を中心とした森が美しい。佐倉道から続く参道も美しい。

写真5:平田諏訪神社 参道

諏訪神社参道.JPG

そのままこの旧道を進むと京成菅野駅。駅を過ぎると古そうな酒屋さんがあり、その先は黒松が通り脇に植えられている美しい通り。黒松通りと云われている。黒松通りを過ぎバス通りに出て左に行くと、御代院がある。

写真6:御代院

御代院.JPG

この辺りの地区名『菅野』の恐らくは由来である、京都から天慶の乱(天慶3年、西暦940年)の時に、京都から妻を伴い東下してきた菅野氏とその妻の墓標を祀ったのがこの御代院である。
菅野氏の妻は、御代の前といい、容姿が美しかったことから将門の内室になり、将門の出城と言われる大野城に入った。そして内情を探って夫に知らせたところから、大野の落城を早め、将門調伏に功績を立てたといわれている。そのご夫妻は剃髪してこの地に留まり、将門との戦で亡くなった人達の後生を弔いながら亡くなったといわれている。

ここ市川は、将門の伝説が残る地域らしい。面白いことに、ここ菅野辺りは、将門調伏を歓迎する風習が、ここより北の大野地区は将門を崇敬する風習が残るそうだ。

それから、天神様も将門と関係しているらしい。天神様が多いなと感じたはずだ。将門、大野地区は追々調べたいと思う。

さて、御代院から旧道に戻りバス通りを横切って進むと、浄言寺がある。

写真7:浄言寺

浄言寺.JPG

インターネットで調べるも情報無し。将門関連がありそうだが。

更に進むと鎮守の森。白幡天神社。又、天神様だ。

写真8:白幡天神社

白幡天神社.JPG

今よりおよそ800年前の治承4年(西暦1180年)に、源頼朝が下総に入った際、当地に源氏の御印である白旗を掲げたことが御社名の由来と伝えられている。その後、天正12年(西暦1584年)正親町天皇の御代に、御本殿再建の記録がある。現在の本殿は明治13年の造営で、拝殿・幣殿は、昭和36年に鈴木義信宮司の下に造営されたもの。太田道灌により造営されたとか、拝殿の社額は勝海舟の筆によるものだとか、由緒のある神社のようだ。

それにしてもここは非常に美しい森だ。

更に進み、突き当りを左に行くと不動院に出る。

写真9:不動院

不動院.JPG

真言宗豊山派不動院の本尊、不動明王は、天慶2年(939年)、平将門平定のため寛朝僧正が、成田山の明王と同木同作のものをこの地に安置したと伝えられている。また、天正18年(1590年)家康の関東移封のおり、豊臣秀吉はこの本尊に祈念し、のち文禄3年(1594年)秀頼誕生に際して秀吉より寺領を賜ったと伝わるが、安政2年(1858年)の火災で多くの寺宝や記録などが消失したため詳細は不明。

不動院の境内を抜けて県道51号線に出る。暫く進み、旧道を左に折れ平田1丁目で佐倉道に出る。そのまま道なりに佐倉道を横切ると歓照寺別院がある。

写真10:歓照寺別院

歓照寺.JPG

道なりに行くと再び佐倉道に。少し戻り郵便局の先を右に入ると、聖徳太子堂がある。

写真11:聖徳太子堂

聖徳太子堂.JPG

インターネットで調べるも今一情報無し

今日はここまで
posted by Yogi at 21:19| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月25日

40.佐倉道(弘法寺〜国分〜佐倉道)

前回の続き。

弘法寺と千葉商科大学の間の道を北東に斜めに行く道、恐らく旧道を進む。
小高い山をぐるっと回り込むように登るとそこに下総国分寺がある。ここは、下総国分僧寺跡。現在は、国分山国分寺という真言宗豊山派の寺である。

写真1:下総国分寺 南大門

下総国分寺南大門.JPG

写真2:下総国分寺 本堂

下総国分寺本堂.JPG

国分寺及び国分尼寺は、聖武天皇の詔によって一国に一寺建設されたもの。
然し、突然に国分寺建立の詔が出された訳ではなく、国家仏教の推進施策の一環として行われた種々指示の総仕上げとして、国分寺建立の詔が出されたと理解する方が正しいようだ。仏教振興策に関する大まかな出来事を簡単に纏めると、以下のようになる。

天武14年(685年)3月:
 諸国に仏舎を造り、仏像や経を礼拝せよとの詔が出される
持統7年(693年)10月:
 諸国で仁王経を講じさせ、翌年金光明経百部を全国へ配布する
神亀5年(728年)12月:
 金光明経を再び全国へ配布する
天平9年(737年)3月:
 釈迦仏像と挟持菩薩を造り、大般若経を写経せよとの詔が出される。
天平13年(741年)3月:
 国分寺(国分僧寺、国分尼寺)造営の詔が出される

尚、実際にはこの一度の詔では、財政的に疲弊した地方国司を動かすことは出来ず、

天平16年(744年)
 諸国国司に対する国分寺・国分尼寺建立の督促
天平19年(747年)
 国司の怠慢を批判する文書
天平勝宝8年(756年)
 聖武天皇崩御に伴う一周忌に間に合うように建立せよとの督促
天平宝字3年(759年)
 国分寺・国分尼寺図面の配布

などが次々と出されていることから、地方での建立は全く順調ではなかったことが判る。

【国分寺造営の詔、続日本紀(現代語訳)】

三月二十四日、天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしひらきとよさくらひこのすめらみこと、聖武天皇のこと)は次のように詔しました。

朕は徳の薄い身であるが、忝けなくも重任を受け継ぎ、まだ民を導く良い政治を広める事が出来ず、寝ても覚めても恥じることが多い。しかし古来よりの名君は皆祖先の仕事をよく受け継ぎ、国家は安泰で人民は楽しみ、災害無く幸いが齎されてきた。どのような政治を行えばこのような統治が出来るのであろうか。このごろは田畑の稔りも豊かでなく、疫病も多い。それをみるにつけ、我が身の不徳を恥じる気持ちと恐れとが湧き上り、心を痛め自分を責めている。

そこで広く人民の為に普く大きな福があるようにしたい。先年駅馬の使を遣わして全国の神宮を修造し、去年は全国に一丈六尺の釈迦仏一体を造らせると共に大般若経を写させたところ、秋の収穫まで風雨が順調で五穀もよく稔った。これは真心が伝わった為で、不思議な賜り物があったというであり、恐ろしくもあり驚きでもあり、自分でも心が安まらない。そこで、経文を考えるに、金光明最勝王経には、「国内にこの経を講義したり読経暗誦したり、恭しく供養し、流布させれば、一切の災いは消滅し、憂愁や疾病も除去されるであろう。願いは心のまま、いつも喜びが訪れるであろう。」とある。

そこで、全国に七重の塔一基を造営し、会わせて金光明最勝王経と妙法蓮華経を書経させることとする。また、朕は別に金光明最勝王経を写経し、七重の塔毎に一部を置くこととする。仏法が盛んになり、天地に永く伝わり、四天王のご加護を死者にも生者にも届かせて、常に十分であることを願おうと思う。そもそも七重の塔を建造する寺は国の華であり、必ずよい場所を選んで真に永久足らんとしなくてはならない。人家に近くて悪臭が及ぶのは良くないし、遠くては集まる人々が疲れるので良くない。国司は国分寺を厳かに飾るよう努め、清浄を保つように。間近に四天王を感嘆させ、四天王が望んで擁護されるように請い願いなさい。遠近に布告を出して、朕の意向を人民に知らせなさい。また、国毎に建てる僧寺には、封戸五十戸、水田十町を施し、尼寺には水田十町を施せ。僧寺には必ず二十人の僧を住まわせ、寺の名は金光明四天王護国之寺としなさい。尼寺の尼は十人とし、寺の名は法華滅罪之寺としなさい。両寺ともに僧尼は受戒し、欠員があれば速やかに補充しなさい。僧尼は毎月八日には必ず金光明最勝王経を転読し、月の半ばには受戒の羯磨を暗誦し、毎月六斎日には公私共に殺生をしてはいけない。国司は宜しく常に検査をしなさい。

江戸名所図会

江戸名所図会_国分寺.jpg

国分僧寺に来たので尼寺にも足を延ばすことにした。市川市の案内板に従い、畑の間の道を行く。すると、天満宮があった。

写真3:国分天満宮

国分天満宮.JPG

ここ市川は天神様が多いような気がする。真間稲荷も菅公を祀っていた。
暫く進むと小さな祠が。覗いてみると、庚申塔があった。

写真4:北台庚申塔

北台庚申塔.JPG

少し進むと北台庚申堂という一角があり、庚申塔がある。

写真5:北台庚申堂 庚申塔

北台庚申堂.JPG

右側面に、右大はし道、左側面に、左まつさと道と彫られている。(恐らく)
左に進むと国分尼寺跡がある。

写真6:下総国分尼寺

下総国分尼寺跡.JPG

下総国分僧寺まで戻る。国分寺の道路を挟んで向かいに、宝珠院がある。

写真7:宝珠院

宝珠院.JPG

宝珠院の脇の道を東に進む。一つ目の左に折れる道を行くと正面に鎮守の森、国分日枝神社がある。

写真8:国分日枝神社

国分日枝神社.JPG

直ぐ隣に龍珠院

写真9:龍珠院

龍珠院.JPG

インターネットで調べるも、3つとも情報が無い。
宝珠院脇の道に戻り東に進むと経王寺がある。門戸が開いておらず妙な写真となってしまった。

写真10:経王寺

経王寺.JPG

そのまま道を進むと坂を下ることになる。つまり、下総国分寺に行く時上がりここで下がるということはここまでが台地であったということである。坂を下りきると県道264線に出る。左に折れ暫く行くと、竺園寺がある。

写真11:竺園寺

竺園寺.JPG

インターネットで調べるも情報無し
県道264線を佐倉道に向かい進む。すると真間川の手前、須和田の地に六所神社がある。

写真12:六所神社 石塔

六所神社石塔.JPG

神社入り口にある平成8年の由緒によると、今を遡ること1881年前、平成8年は1996年なので西暦115年になるが、景行天皇の詔によって、

大己貴命
大日靈女貴命
伊弉那岐命
素戔嗚命
瓊瓊杵尊
大宮姫命

の六神を祀った宮と伝えられ、国府台字府中の六所の森、現在のスポーツセンターの北に鎮座していたとのこと。その後、下総の国の総社として国守により祭礼がおこなわれてきたが、戦国時代には里見氏、北条氏、千葉氏の守護を受け、江戸時代には、徳川から朱印を賜り篤く崇敬されていた。明治19年、国府台字府中の六所の森が軍用地になった為、ここ須和田に移転となった。

写真13:六所神社 境内 天津神塔道標

六所神社天津祖太神道標.JPG

右側面に、右みやくぼ、左いちかわと彫られている。

県道264線をそのまま進み、佐倉道に出た。(新田5丁目T字路)

続きは次回
posted by Yogi at 10:41| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月22日

39.佐倉道(弘法寺参道〜弘法寺)

前回の続き。

弘法寺の参道、大門通りを行く前に、参道を過ぎJR市川駅入り口の交差点を左に行くと、市川八幡神社がある。

写真1:市川八幡神社

市川八幡神社.JPG

この神社は今から百五十年前千葉街道の名松(三本松)の根本に郷土の産土神として祭祉されていたが、第二次世界大戦中、道路拡張の為内務省の命によりこの地に移遷され現在に至る。

弘法寺参道に戻る。壁や電柱、店先に、万葉集の歌や近隣住民の歌が掲げられている。京成本線を過ぎると直ぐ真間川を渡る。真間川を渡ると直ぐに真間の継橋がある。

写真2:真間の継橋

真間の継橋.JPG

その昔、市川北部の大地とその南に形成された市川砂洲との間には、現在の江戸川へ流れ込む真間川の河口付近から、東に入って奥深い入り江ができていた。この入り江を「真間の入り江」と呼び、手児奈の伝説と結びつけて伝えられた。「片葉(かたは)の葦(あし)」やスゲ等が密生していた。

国府台に下総国府の置かれたころ、上総の国府とをつなぐ官道は、市川砂洲上を通っていた。砂州から国府台の台地に登る間の入江の口には幾つかの洲ができていて、その洲から洲に掛け渡された橋が万葉集に詠われた「真間の継橋」なのである。

【万葉集】
足(あ)の音せず行かむ駒(こま)もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ

葛飾の真間の手児名が奥津城をこことは聞けど真木の葉や

吾も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥津城処

葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ

勝鹿の真間の手児名が麻衣に青衿着け直さ麻を裳には織り着て

勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ

葛飾の真間の継橋夏近し二人わたれりその継橋を

葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花

葛飾の真間の浦廻をこぐ船の船人騒ぐ波立つらしも

葛飾の真間の手児奈がありしかば真間のおすひに波もとどろに

真間の継橋を渡りすぐ右側に手児奈霊堂の参道がある。

広重も描いた。

広重_真間の紅葉手古那の社継橋.jpg

【手児奈伝説】
むかしむかしの、ずっとむかし「手児奈」という美しい娘がいました。上品で、満月のようにかがやいた顔は、都の、どんなに着飾った姫よりも、清く、美しくみえました。

その美しい手児奈のうわさはつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にもひろまっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやってきては、結婚をせまりました。しかし、手児奈はどんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。

それをみた手児奈は、 「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」 といいながら、真間の入江まできたとき、ちょうど真っ赤な夕日が海に落ちようとしていました。

それをみて、 「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」 と、そのまま海へはいってしまったのです。

追いかけてきた男たちは 「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」 と思いましたが、もう、どうしようもありません。

翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、手厚くほうむりました。

写真3:手児奈霊堂 参道

手児奈霊堂参道.JPG

写真4:手児奈霊堂 本堂

手児奈霊堂 本堂.JPG

写真5:手児奈霊堂 池

手児奈霊堂 池.JPG

この池は、真間の入り江の名残と言われている。
手児奈霊堂は、文亀元年(1501年)に、弘法寺第七世日与上人が世に広めた。

手児奈霊堂の右側敷地には、真間稲荷神社がある。

写真6:真間稲荷神社

真間稲荷神社.JPG

創建年は不明も、万延元年に再建の記録が残る。

手児奈霊堂 本堂左脇を抜け道に出るとそこには亀井院がある。

写真7:亀井院

亀井院.JPG

1638年(寛永15年)頃、弘法寺の第十一世住職である日立上人が貫主の隠居寺として建てたという。 古くは清水が湧いていたことにちなんでか瓶井院、瓶井坊とも呼ばれ、真間山弘法寺の子院のひとつであった。後に弘法寺の大檀那、鈴木長常を葬った際、鈴木院と改称した。江戸時代には、江戸幕府作事奉行鈴木長頼が亀井院を修造したという。

鈴木長常の息子である鈴木長頼が1705年(宝永2年)に、日光東照宮の石を亀井院の石段に流用したかどで幕府に咎められ切腹した後、当時亀井と呼ばれていた真間の手児奈にちなみ、亀井院と改称した。その後、1916年(大正5年)5月から6月頃まで北原白秋がこの寺の庫裏に住んでいたこともある。

亀井とは、井戸に霊亀が出現するという伝説から来ている。
境内にある真間の井は、万葉集にも詠まれた真間の手児奈が水を汲んだ井戸と伝えられている。

写真8:真間の井

亀井院 真間の井.JPG

亀井院の前の道を、亀井院を正面に見て左に行くと、真間山弘法寺の石段前に出る。石段を上がると仁王門がある。

写真9:弘法寺 石段

弘法寺 階段.JPG

写真10:弘法寺 仁王門

弘法寺山門.JPG

写真11:弘法寺 伏姫桜

弘法寺 伏姫桜.JPG

ここ真間山、弘法寺(ぐほうじ)は奈良時代、天平九年(737年)、行基菩薩がこの地にお立ち寄りになられた折、里の娘、手児奈の哀話をお聞きになり、いたくその心情を哀れに思われ、一宇(いちう)を建てて「求法寺(ぐほうじ)」と名づけ、手厚くその霊を弔われた。

それからおよそ百年ほど経た平安時代、弘仁十三年(822年)に弘法大師(空海)が教えを弘められるためにおいでになられた時、求法寺を七堂伽藍に再建され、寺運を一新して、「求法寺」を「弘法寺」と改称された。

その後、鎌倉時代に入り、建治元年(1275年)に、時の住持、了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)と、中山法華経寺、富木常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられた。

その結果、日頂上人が法論に勝たれたため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることとなった。

当山は元亨三年(1323年)に千葉胤貞公(ちばたねさだこう)より寺領の寄進を受け、天正十九年(1591年)に徳川家康公より御朱印状を賜り、元禄八年(1695年)には水戸黄門公が来詣された折、茶室を賞(め)でて「遍覧亭(へんらんてい)」と称された。

明治二十一年(1888年)火災のため、全山、悉く灰燼(かいじん)に帰し、現在の諸堂は明治二十三年(1890年)に再建されたものである。

江戸名所図会

江戸名所図会_真間 弘法寺.jpg

左手前から右奥への道が参道、参道の途中、右に折れた所に手児奈霊堂が見える。田んぼの真ん中にある。参道に戻り、少し進み右に入る道を右に行くと亀井院が見える。参道に再び戻ると弘法寺の石段が見える。その上に弘法寺。今とほぼ同じ位置関係だ。実に面白い。

今日はここまで
posted by Yogi at 23:07| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。