2010年05月16日

20.行徳塩の道の地図

徳川家康が行徳を幕府直属の天領とし、「塩は軍用第一の品、領内一番の宝である」といって、塩業を保護、奨励したため、寛永9年(1632年)に塩を運ぶための水路、小名木川、新川が整備され、途中江戸川、中川、隅田川を通り江戸城内と本行徳は、直接船で結ばれることになった。

本行徳村は、この航路の独占権を得て、船着場が作られ、「行徳船」「長渡船」が就航するようになり、塩だけでなく、人や物資の運搬も盛んになった。行徳船を利用した著名人も多く、芭蕉、十返舎一九、一茶、渡辺華山、大原幽学などの記録がある。また、文化・文政のころからは、江戸で成田山詣でが流行し、行徳は船場、宿場として活況を呈した。日本橋小網町と下総行徳村を結んだこの船便は、明治に入ると蒸気船が登場し、水上交通は新しい時代を迎えた。

当時を偲ぶものとして、かつての船着場付近に常夜灯が残っている。

現代の地図


より大きな地図で 行徳道 を表示

明治初期の地図ではこうなる。

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以上
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19.行徳塩の道(平井〜行徳)

前回の続き

平井橋を渡りすぐ右に、平井の渡し跡がある。

写真1: 平井の渡し跡

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今はごみ集積所になっていて、説明板の上にカラス除けのカバーが掛っていて、何とも悲しい光景だ。

平井の渡し説明板のある小道を南に行き、突き当りを左に曲がると平井諏訪神社がある。

写真2: 平井諏訪神社

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お隣の平井聖天、燈明寺の恵祐法印が、享保年間(1716-1735年)に出身地である信州諏訪大社から神霊を勧請したのがはじまりと伝えられている。

隣には、平安時代の創建と伝えられる、歴代将軍の御膳所として使用された他、江戸図会名所にも描かれている平井聖天燈明寺がある。

写真3: 平井聖天燈明寺

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本尊の不動明王は身長1丈3勺(3.9m)で胎内に弘法大師1刀3札の不動明王を安置しているという。開山は元暁法印といわれるが年代は不詳である。本堂は大正12年関東大震災のため倒壊したので千代澄道大僧正の発願により昭和4年に起工し同19年に完成した。建物は総高14.4m、幅17.1m、奥行27mの金堂造りである。内部の奥の院は飛鳥朝風、中陣は平安朝風に、外陣は鎌倉風に造られ、シャンデリヤは鹿鳴館で使用されたものである。外部は宇治平等院と京都東寺金堂の様式を取入れ、三つ屋根造りで軒ぞりの優雅な姿をした壮麗な建築である。先代澄道大僧正は、正岡子規や伊藤左千夫などと親交が深かったので、それらの文人たちの短冊をはじめ、雪舟の「水墨山水図」、「南岳草花図譜」、応挙の「宇治橋」、牧渓の「虎の図」などを所蔵している。燈明寺の別堂である聖天堂は「平井聖天」といわれ、昔から関東三聖天の一つである。江戸時代には歴代将軍の鷹狩の時、聖天に参詣され、また御膳所にもなっていた。この聖天堂は、里見八犬伝の物語や桧山騒動の相馬大作の祈願したことなどでもその名を知られ、昔から多くの人の信仰を集めている。

江戸名所図会_平井聖天.jpg

平井聖天から南に行くと蔵前橋通りに出る。蔵前橋通りを東に行き、平井大橋西詰の交差点を右折、JRの高架を過ぎてすぐ左に入る道が行徳道だ。このまま真っ直ぐ、荒川にぶつかるまで続く。荒川にぶつかる手前に、目黄不動で有名な最勝寺がある。

写真4: 最勝寺

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開山は慈覚大師で貞観2年(860年)隅田河畔に一寺を建立したのが始まりで、後に良本阿闍梨が中興した。本堂の内陣は鉄筋で大金庫式に造られ、その中に本尊釈迦如来を安置する。別堂の不動堂には不動明王と大日如来を安置する。

京葉道路で荒川を渡り、現在の今井街道の一つ南側の小道が行徳道、首都高速小松川線の側道で今井街道と合流し、江戸川まで、南東に真っ直ぐ続く。江戸川にぶつかる手前で篠崎街道と交差する。篠崎街道を右折し、新中川を渡り、古川に出る。新川が開削される前はこの古川で塩を運んでいた。寛永6年(1629年)に新川が出来て、その名を古川としたとのこと。

古川沿いは古くから賑わっていて、神社仏閣、史跡が多い。
真福寺、塩舐め地蔵がある西光寺、宇田川家長屋門、蓮華寺、江戸名所図会にも描かれた妙勝寺、二之江神社、妙光寺と続く。妙光寺を過ぎると、新川に合流する。

写真5: 真福寺(宝徳3年[1451年]起立)

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写真6: 西光寺(天文元年1月[1532年]開山)

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写真7: 塩舐め地蔵

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写真8: 宇田川家長屋門

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写真9: 行徳道道標

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写真10: 蓮華寺(永享10年[1438年]開山)

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写真11: 妙勝寺(徳治2年[1307年]開山)

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江戸名所図会_妙勝寺.jpg

写真12: 二之江神社(寛文年間[1661-1673年]の創建、旧二之江村の鎮守で香取神社)

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写真13: 妙光寺(天正13年[1585年]開山)

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ようやく新川に戻ってきた。

行徳そのものは後日訪れる。

以上
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18.行徳塩の道(境橋〜平井)

前回の続き

龍眼寺から再び北十間川に戻り、東に進むとすぐに江東天祖神社がある。

写真1: 江東天祖神社

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江東天祖神社は、推古天皇(554〜628年)の頃の創建とされ、古くは柳島総鎮守神明宮と称されていた古社である。柳島村の鎮守、村社を経て、現在に至る。亀戸七福神の福禄寿としても有名。境内社の太郎稲荷神社は、筑後立花家下屋敷にあった、立花家の守護神を江戸時代に移したもので、樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社。

更に東に進むと逆井橋の袂に木下川薬師道道標がある。

写真2: 木下川薬師道道標

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境橋を渡るとすぐ右に吾嬬神社がある。

写真3: 吾嬬神社

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この辺りは東京都墨田区立花と言い、その1丁目1番地にこの吾嬬神社がある。御祭神は弟橘媛(オトタチバナヒメ)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の妃だ。弟橘姫を祭るので吾嬬神社(吾嬬=わが妻)。立花の地名の由来である。隅田川にかかる吾妻橋も、吾嬬神社への参道だからその名となっている。

ヤマトタケルが横須賀走水港から上総国を目指して浦賀水道を航海しているとき嵐が襲い船が難破しそうになった。海神を鎮めるために弟橘媛が海に身を投げると嵐が治まり無事に対岸につくことができた。その後、西の方に舟を進めると一つの島が見えた。そこに弟橘媛の衣服が浮かんでいた。ここに築山を作り衣服を納めた。これが吾嬬神社のいわれとされる。吾嬬神社には楠の枯株が残っている。これはヤマトタケルが媛のため神前に箸を捧げたのが大きな楠になった。又、ヤマトタケルが関東を去るとき足柄峠から東を振り返り、亡き妻を偲んで「吾嬬はや」と言ったので関東を東(あずま)と呼ぶようになったとされている。

広重にも描かれている。

広重_吾嬬の森.jpg

江戸名所図会にも

江戸名所図会_吾嬬の森 吾嬬権現.jpg

鳥がなくあづまの森を見わたせば月は入り江の波ぞしらめる 藤原恭光人道 この和歌は戸田茂睡入道のあらはせる『鳥の跡』 といへる和歌の集に載せたりし、みづからの詠なり。そのはしに「この吾妻の森は東人(あづまびと)といへるが住みしところなり」とあり。 この東人いかなる人にや、いまだ考へず。

縁の弟橘姫入水も描かれている。

江戸名所図会_弟橘姫入水.jpg

吾嬬神社を少し北に行くと、足利時代末期天文年間の草創の明源寺がある。

写真4: 明源寺

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再び吾嬬神社に戻り、北十間川北岸を東に進み、旧道に入り旧中川沿いに平井橋まで進む。

今日はここまで
posted by Yogi at 11:08| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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