2010年05月10日

17.行徳塩の道(萬年橋〜境橋)

前回の続き

本所吾妻橋の袂、墨田区役所、アサヒビールの一角の横に、嘉祥2年(849年)、慈覚大師の創建と伝えられる天台宗の古刹、如意輪寺がある。

写真1: 如意輪寺

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境内に聖徳太子像(寺伝によれば大師の作とも太子自作ともいう)を安置した御堂があったことから、「牛島太子堂」とか「中之郷太子堂」の名で広く知られていた。(現在は無い。)

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_中郷 最勝寺 神明宮 太子堂 如意臨寺.jpg

手前が最勝寺。今は平井に移転している、目黄不動。奥に如意輪寺が見える。

北十間川南岸を東に進むと、押上天祖神社がある。ここは中川より西なので、葛西御厨としての天租神社ではないか。

写真2: 押上天祖神社

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ここ押上天祖神社は、明治5年10月元押上村の村社に列し祭日は9月16日と定められて今日に及んでいる。その起因するところによれば、古く延元年間よりの祭であった。延元は建武の次で、南朝の忠臣楠正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃で今から六百余年の昔に当る。当時は押上と云ったかどうか分からないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところどころに島や浮洲があった。この辺は柳島と云われ早い時代に陸地となり人が住んだところとも伝えられている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。祭神は天照大神と八幡、春日両大神を祭ってある。また一説には現在の京成橋附近で川が増水して堤防に押上げられてあった御神体を、当時附近の農民等が安置して祭ったとも云われている。

更に進むと、横十間川の手前に法性寺がある。

写真3: 法性寺

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法性寺は柳島妙見と呼ばれて江戸時代から信仰する人の多かった寺。天正元年(1573年)創建の日蓮宗真間山弘法寺の末寺で、妙見大菩薩を奉安した妙見堂がある。妙見大菩薩は北斗星を神化したもので、国土を護り貧窮を救うといわれている仏様で、像容は端麗な天女形だ。寺の入口に「北辰妙見大菩薩」と刻まれた高さ170cmの石標が建っている。右側面に「妙見山法性寺」、左側面に「宝暦2壬申(1752年)6月15日坂本町講中 □□町講中」とあり、この石標は、以前は道標をかねて浅草通りに面して立てられていたとのこと。

又、ここ柳島は広重にも描かれている。

広重_柳島.jpg

江戸名所図会にも

江戸名所図会_柳島 妙見堂.jpg

左右に貫かれている道が行徳道。その手前が北十間川。

横十間川を南に少し行くと、龍眼寺がある。

写真4: 龍眼寺

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写真5: 庚申塔

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応永2年(1396年)開山、良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現れ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより聖観世音菩薩を授かり、至心に祈願した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。その後現在の「龍眼寺」と改められた。御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖堂(八正堂)という。八聖道とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれている。また、境内の万治2年(1659年)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のもの。

江戸名所図会の龍眼寺

江戸名所図会_龍眼寺 萩見.jpg

庭中萩を多く栽ゑて中秋の一(いつ)奇観たり。ゆゑに俗呼んで萩寺と称せり。『万葉集』芳子(はぎ)に作り、『和名抄』鹿鳴草(はぎ) に作る。『続日本書紀』に、「仁明承和元年八月、清涼殿に内宴す。これを芳宜(はぎ)華の讌(えん)といふ」とありて、 皇朝古へより萩を愛せられしことかくのごとし。

今日はここまで
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16.行徳塩の道(中川口〜萬年橋)

前回の続き

中川口の中川船番所を過ぎ小名木川を西へ。
すると直ぐに法塔寺がある。

写真1: 法塔寺

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宝塔寺は、慶長15年(1610年)の開創。境内に安置されている塩なめ地蔵は、元は、小名木川沿いにあったものを昭和初期に移したもの。江戸時代に、小名木川や行徳道を通る商人たちが、この地蔵の前で休憩し、商売繁盛を願って塩を供えたのが由来と伝えられている。

少し先に、大島稲荷神社がある。

写真2: 大島稲荷神社

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創建年代は慶安年間(1648〜51年)、旧大島村村社。この近辺は小名木川・海辺に近く、数度の津波の被害に遭い、また悪疫の流行もあったため、村人が山城国の伏見稲荷を勧請したという。境内の「女木塚」の碑は其日庵社中によって建立されたもので、元禄5年(1692年)、松尾芭蕉が深川から小名木川を下って門弟の洞渓を訪ねていく途中、船を止めて大島稲荷を参拝した際に詠んだ「秋に添て行はや末は小松川」の句が刻まれている。

途中、今の四つ目通りと交差する辺り、五本松があり、広重、江戸名所図会、小林清観に描かれた名勝である。

広重_小名木川五本松.jpg

江戸名所図会_小名木川 五本松.jpg

小林清観_五本松雨.jpg

小名木川を西へ更に進むと隅田川と合流する。
その合流口に、萬年橋がある。

写真3: 萬年橋

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ここ萬年橋は、北斎と広重に描かれた名所だった。上が北斎、下が広重。

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架橋された年代は不明も、延宝8年(1680年)の江戸図には元番所の橋と記載がある為、それ以前のものと推定される。この橋の北岸袂に、船番所があった。寛文年間(1661〜73年)には中川口に移された。

萬年橋を北へ渡ると芭蕉稲荷神社、芭蕉庵がある。

写真4: 芭蕉稲荷神社

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これは江戸名所図会の芭蕉庵

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写真5: 芭蕉庵、芭蕉の像の芭蕉目線で見た隅田川の風景

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松尾芭蕉は延宝8年(1680年)深川芭蕉庵に移り、元禄7年(1694年)10月12日、51歳で没するまで、この地を根拠地として全国の旅に出た。芭蕉庵は、弟子の杉山杉風の土地で、生簀があり、その番小屋に芭蕉を住まわせたものといわれている。芭蕉没後芭蕉庵一帯は、武家屋敷となり、文久2年(1862年)の絵図によると、尼崎藩の松平紀伊守の下屋敷となっている。

写真6: 文久2年(1862年)の絵図

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萬年橋から隅田川を北上し、新大橋、竪川の一之橋、両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋を過ぎると、次の橋は本所吾妻橋。

本所吾妻橋から東に延びる北十間川沿いの道が行徳道、ここから行徳までほぼ真っすぐに続いている。それは次回、今日はここまで。
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15.行徳塩の道(新川〜中川口)

今回は行徳塩の道。

古来からの江戸川区の主要な道は、佐倉道、元佐倉道、岩槻道(篠崎街道)、武蔵国と下総国を結ぶ古代官道、そして、行徳道だ。

行徳は塩の産地で、徳川の時代には天領になっている。行徳の塩を江戸に運ぶルートは、堀の開削前は陸路、開削後は水路だった。今回は、ぐるっと水路、陸路の両方を巡る。

写真1: あけぼの湯

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戦国時代、小田原を本拠とする北条早雲は、武蔵、下総の両国にその勢力を延ばそうとしていた。天文6年(1537年)、その先兵として近田軍の一隊は、伊豆の河津より浜伝いにここ船堀の陣屋橋付近に上陸し陣を構えた。陣屋橋の名前の由来である。あけぼの湯の祖先もその中にいたという。年明けて天文7年(1538年)、そして永禄7年(1564年)と、2回に亘り、国府台合戦で江戸川を遡って国府台にて下総の里見軍と戦い、これを撃破したという。が、天正18年(1590年)、秀吉が小田原で北条家を亡ぼした。この時近田軍も救援に行ったが間に合わず、再び船堀に引き上げた。北条家の滅亡は近田軍も解散のやむなきに至り、一部は故郷に帰郷し、多くは新田を開墾しこの地の住人となった。

この時あけぼの湯の先祖は、舟問屋に転身し行徳にあった塩田から塩を運ぶのを主とした。やがて江戸川を遡り利根川から渡良瀬川その支流思川のほとり乙女に河岸を築き、物資の集積場を設け、乙女屋と名乗って舟問屋は繁盛し大きくなって行った。

慶長5年(1600年)、家康は 会津の上杉を討つため小山に陣を張っていた。この時石田三成が兵を挙げた。世に言う天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦の火蓋が切られたのである。家康は重臣を集め一週間もの協議を続けた。世に言う小山評定である。その後家康は乙女河岸より江戸川船堀川(現新川)を経て江戸城に戻ったと徳川実記に記載されている。

やがて舟は成田山、千葉寺詣の武士町人までが利用するようになり、大いに船堀は賑わい、出身地を屋号にした、銚子屋、関宿屋、上州屋等が立ち並び、酒色でさんざめきが響いた。幕府は治安維持のため、番所を設け夜間の通航を禁止した。船堀のにぎわいは大いに増した事であったろう。番所を前にしての休憩、通過しての泊まりに利用されたと言う。この繁栄はやがて船頭、舟人足、船のお客の為銭湯経営にまで手を広げていったという。安永2年(1773年)のことだ。

あけぼの湯から新川を西へ行くと、中川放水路の手前に元和2年(1616年)開山の法然寺がある。

写真2: 法然寺

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法然寺には、万治2年(1659年)建立の笠付角柱型庚申塔が保存されている。

法然寺から中川放水路沿いに北上し、船堀橋を西へ渡り、荒川も越えたところでサイクリングロードを南下、旧中川に出る。旧中川と小名木川の合流地点に、中川船番所がある。

写真3: 中川船番所

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元は、これから向かう小名木川は萬年橋の袂にあった。

ここは広重の絵にもなっている。

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今の風景はこのようになる。

写真4: 中川口

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正面に見えるのが小松川閘門で、その向こうに船堀川、現在の新川が繋がっていたが、荒川放水路の開削で消滅している。

江戸名所図会にも

江戸名所図会_中川口.jpg

今日はここまで
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