2010年05月16日

19.行徳塩の道(平井〜行徳)

前回の続き

平井橋を渡りすぐ右に、平井の渡し跡がある。

写真1: 平井の渡し跡

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今はごみ集積所になっていて、説明板の上にカラス除けのカバーが掛っていて、何とも悲しい光景だ。

平井の渡し説明板のある小道を南に行き、突き当りを左に曲がると平井諏訪神社がある。

写真2: 平井諏訪神社

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お隣の平井聖天、燈明寺の恵祐法印が、享保年間(1716-1735年)に出身地である信州諏訪大社から神霊を勧請したのがはじまりと伝えられている。

隣には、平安時代の創建と伝えられる、歴代将軍の御膳所として使用された他、江戸図会名所にも描かれている平井聖天燈明寺がある。

写真3: 平井聖天燈明寺

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本尊の不動明王は身長1丈3勺(3.9m)で胎内に弘法大師1刀3札の不動明王を安置しているという。開山は元暁法印といわれるが年代は不詳である。本堂は大正12年関東大震災のため倒壊したので千代澄道大僧正の発願により昭和4年に起工し同19年に完成した。建物は総高14.4m、幅17.1m、奥行27mの金堂造りである。内部の奥の院は飛鳥朝風、中陣は平安朝風に、外陣は鎌倉風に造られ、シャンデリヤは鹿鳴館で使用されたものである。外部は宇治平等院と京都東寺金堂の様式を取入れ、三つ屋根造りで軒ぞりの優雅な姿をした壮麗な建築である。先代澄道大僧正は、正岡子規や伊藤左千夫などと親交が深かったので、それらの文人たちの短冊をはじめ、雪舟の「水墨山水図」、「南岳草花図譜」、応挙の「宇治橋」、牧渓の「虎の図」などを所蔵している。燈明寺の別堂である聖天堂は「平井聖天」といわれ、昔から関東三聖天の一つである。江戸時代には歴代将軍の鷹狩の時、聖天に参詣され、また御膳所にもなっていた。この聖天堂は、里見八犬伝の物語や桧山騒動の相馬大作の祈願したことなどでもその名を知られ、昔から多くの人の信仰を集めている。

江戸名所図会_平井聖天.jpg

平井聖天から南に行くと蔵前橋通りに出る。蔵前橋通りを東に行き、平井大橋西詰の交差点を右折、JRの高架を過ぎてすぐ左に入る道が行徳道だ。このまま真っ直ぐ、荒川にぶつかるまで続く。荒川にぶつかる手前に、目黄不動で有名な最勝寺がある。

写真4: 最勝寺

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開山は慈覚大師で貞観2年(860年)隅田河畔に一寺を建立したのが始まりで、後に良本阿闍梨が中興した。本堂の内陣は鉄筋で大金庫式に造られ、その中に本尊釈迦如来を安置する。別堂の不動堂には不動明王と大日如来を安置する。

京葉道路で荒川を渡り、現在の今井街道の一つ南側の小道が行徳道、首都高速小松川線の側道で今井街道と合流し、江戸川まで、南東に真っ直ぐ続く。江戸川にぶつかる手前で篠崎街道と交差する。篠崎街道を右折し、新中川を渡り、古川に出る。新川が開削される前はこの古川で塩を運んでいた。寛永6年(1629年)に新川が出来て、その名を古川としたとのこと。

古川沿いは古くから賑わっていて、神社仏閣、史跡が多い。
真福寺、塩舐め地蔵がある西光寺、宇田川家長屋門、蓮華寺、江戸名所図会にも描かれた妙勝寺、二之江神社、妙光寺と続く。妙光寺を過ぎると、新川に合流する。

写真5: 真福寺(宝徳3年[1451年]起立)

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写真6: 西光寺(天文元年1月[1532年]開山)

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写真7: 塩舐め地蔵

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写真8: 宇田川家長屋門

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写真9: 行徳道道標

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写真10: 蓮華寺(永享10年[1438年]開山)

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写真11: 妙勝寺(徳治2年[1307年]開山)

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江戸名所図会_妙勝寺.jpg

写真12: 二之江神社(寛文年間[1661-1673年]の創建、旧二之江村の鎮守で香取神社)

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写真13: 妙光寺(天正13年[1585年]開山)

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ようやく新川に戻ってきた。

行徳そのものは後日訪れる。

以上
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18.行徳塩の道(境橋〜平井)

前回の続き

龍眼寺から再び北十間川に戻り、東に進むとすぐに江東天祖神社がある。

写真1: 江東天祖神社

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江東天祖神社は、推古天皇(554〜628年)の頃の創建とされ、古くは柳島総鎮守神明宮と称されていた古社である。柳島村の鎮守、村社を経て、現在に至る。亀戸七福神の福禄寿としても有名。境内社の太郎稲荷神社は、筑後立花家下屋敷にあった、立花家の守護神を江戸時代に移したもので、樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社。

更に東に進むと逆井橋の袂に木下川薬師道道標がある。

写真2: 木下川薬師道道標

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境橋を渡るとすぐ右に吾嬬神社がある。

写真3: 吾嬬神社

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この辺りは東京都墨田区立花と言い、その1丁目1番地にこの吾嬬神社がある。御祭神は弟橘媛(オトタチバナヒメ)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の妃だ。弟橘姫を祭るので吾嬬神社(吾嬬=わが妻)。立花の地名の由来である。隅田川にかかる吾妻橋も、吾嬬神社への参道だからその名となっている。

ヤマトタケルが横須賀走水港から上総国を目指して浦賀水道を航海しているとき嵐が襲い船が難破しそうになった。海神を鎮めるために弟橘媛が海に身を投げると嵐が治まり無事に対岸につくことができた。その後、西の方に舟を進めると一つの島が見えた。そこに弟橘媛の衣服が浮かんでいた。ここに築山を作り衣服を納めた。これが吾嬬神社のいわれとされる。吾嬬神社には楠の枯株が残っている。これはヤマトタケルが媛のため神前に箸を捧げたのが大きな楠になった。又、ヤマトタケルが関東を去るとき足柄峠から東を振り返り、亡き妻を偲んで「吾嬬はや」と言ったので関東を東(あずま)と呼ぶようになったとされている。

広重にも描かれている。

広重_吾嬬の森.jpg

江戸名所図会にも

江戸名所図会_吾嬬の森 吾嬬権現.jpg

鳥がなくあづまの森を見わたせば月は入り江の波ぞしらめる 藤原恭光人道 この和歌は戸田茂睡入道のあらはせる『鳥の跡』 といへる和歌の集に載せたりし、みづからの詠なり。そのはしに「この吾妻の森は東人(あづまびと)といへるが住みしところなり」とあり。 この東人いかなる人にや、いまだ考へず。

縁の弟橘姫入水も描かれている。

江戸名所図会_弟橘姫入水.jpg

吾嬬神社を少し北に行くと、足利時代末期天文年間の草創の明源寺がある。

写真4: 明源寺

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再び吾嬬神社に戻り、北十間川北岸を東に進み、旧道に入り旧中川沿いに平井橋まで進む。

今日はここまで
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2010年05月10日

17.行徳塩の道(萬年橋〜境橋)

前回の続き

本所吾妻橋の袂、墨田区役所、アサヒビールの一角の横に、嘉祥2年(849年)、慈覚大師の創建と伝えられる天台宗の古刹、如意輪寺がある。

写真1: 如意輪寺

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境内に聖徳太子像(寺伝によれば大師の作とも太子自作ともいう)を安置した御堂があったことから、「牛島太子堂」とか「中之郷太子堂」の名で広く知られていた。(現在は無い。)

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_中郷 最勝寺 神明宮 太子堂 如意臨寺.jpg

手前が最勝寺。今は平井に移転している、目黄不動。奥に如意輪寺が見える。

北十間川南岸を東に進むと、押上天祖神社がある。ここは中川より西なので、葛西御厨としての天租神社ではないか。

写真2: 押上天祖神社

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ここ押上天祖神社は、明治5年10月元押上村の村社に列し祭日は9月16日と定められて今日に及んでいる。その起因するところによれば、古く延元年間よりの祭であった。延元は建武の次で、南朝の忠臣楠正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃で今から六百余年の昔に当る。当時は押上と云ったかどうか分からないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところどころに島や浮洲があった。この辺は柳島と云われ早い時代に陸地となり人が住んだところとも伝えられている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。祭神は天照大神と八幡、春日両大神を祭ってある。また一説には現在の京成橋附近で川が増水して堤防に押上げられてあった御神体を、当時附近の農民等が安置して祭ったとも云われている。

更に進むと、横十間川の手前に法性寺がある。

写真3: 法性寺

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法性寺は柳島妙見と呼ばれて江戸時代から信仰する人の多かった寺。天正元年(1573年)創建の日蓮宗真間山弘法寺の末寺で、妙見大菩薩を奉安した妙見堂がある。妙見大菩薩は北斗星を神化したもので、国土を護り貧窮を救うといわれている仏様で、像容は端麗な天女形だ。寺の入口に「北辰妙見大菩薩」と刻まれた高さ170cmの石標が建っている。右側面に「妙見山法性寺」、左側面に「宝暦2壬申(1752年)6月15日坂本町講中 □□町講中」とあり、この石標は、以前は道標をかねて浅草通りに面して立てられていたとのこと。

又、ここ柳島は広重にも描かれている。

広重_柳島.jpg

江戸名所図会にも

江戸名所図会_柳島 妙見堂.jpg

左右に貫かれている道が行徳道。その手前が北十間川。

横十間川を南に少し行くと、龍眼寺がある。

写真4: 龍眼寺

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写真5: 庚申塔

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応永2年(1396年)開山、良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現れ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより聖観世音菩薩を授かり、至心に祈願した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。その後現在の「龍眼寺」と改められた。御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖堂(八正堂)という。八聖道とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれている。また、境内の万治2年(1659年)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のもの。

江戸名所図会の龍眼寺

江戸名所図会_龍眼寺 萩見.jpg

庭中萩を多く栽ゑて中秋の一(いつ)奇観たり。ゆゑに俗呼んで萩寺と称せり。『万葉集』芳子(はぎ)に作り、『和名抄』鹿鳴草(はぎ) に作る。『続日本書紀』に、「仁明承和元年八月、清涼殿に内宴す。これを芳宜(はぎ)華の讌(えん)といふ」とありて、 皇朝古へより萩を愛せられしことかくのごとし。

今日はここまで
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