2010年05月23日

22.古代東海道の地図


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鐘ヶ淵から小岩まで、ほぼ真っすぐに東西に延びていることが分かると思う。ある意味、この「まっすぐ」が、古代官道の「証拠」でもある。
現在の府中にあったとされている武蔵の国の国府から、下総の国の国府、現在の国府台に向かう道である。小岩で江戸川を渡り、国府台に至った。

明治初期の地図で表すとこうなる。

古代東海道.JPG

以上
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2010年05月21日

21.古代東海道

律令制の時代に導入された広域地方行政区画、それが五畿七道(後に北海道が追加され八道に)である。

畿内、東海道(中路)、東山道(中路)、北陸道(小路)、山陰道(小路)、山陽道(大路)、南海道(小路)、西海道(小路)、北海道

と、有り、東海道は、現在の三重県から茨城県にかけての太平洋側の地域を指す。

東海道.svg.png

七道の各国の国府は、それぞれ同じ名の幹線官道(駅路)で結ばれていた。七道は大路、中路、小路に分けられ、駅路には原則として30里(約16キロ)ごとに駅(駅家)を置き、駅ごとに駅馬が常備された。駅周辺に駅長や駅丁を出す駅戸を置き、駅馬の育養にあたらせた。駅家には往来する人馬の休息・宿泊施設を置き、駅鈴を持っている官人や公文書を伝達する駅使が到着すると乗り継ぎの駅馬や案内の駅子を提供した。最短距離とする為、真っ直ぐになっているのが特徴である。これら七道には、江戸時代の五街道などと重複する呼称がある。時代や成り立ちが異なるものの、ほぼ同じ道筋にはなっている。

今回は、葛飾に残る古代の東海道を巡る。

出発は小岩の佐倉道にある真光院だ。真光院の前で佐倉道とT字に交差している上小岩遺跡通り。それが古代東海道である。

真光院から西へ進むと岩槻道、現在の篠崎街道と交差する。篠崎街道を少し南に進むと元和7年(1621)賢覚によって開山された十念寺がある。

写真1: 十念寺

SANY0030.JPG

本尊の木造阿弥陀如来立像は弘法大師の作と伝えられている。
その他、中小岩の庚申塔河原道石造道標、中小岩の庚申塔市川道石造道標があるが、太子堂に収められており、写真は撮れなかった。

古代東海道に戻り、少し西へ進むと南側に万延元年(1860年)2月創建の五北天祖神社がある。

写真2: 五北天祖神社

SANY0034.JPG

境内には樹齢300年を超える非常に素晴らしいイチョウの木がある。晩秋に再訪しよう。

古代東海道に戻り少し西へ進むと今度は北側にまたしても天祖神社、上小岩天祖神社がある。古代東海道に戻り、西へ。京成小岩の駅を過ぎ、新中川を渡り、旧中川を渡ると、北側に、旧立石村鎮守、平安時代中期の長保年間(999〜1003年)に創祠と伝えられ、陰陽師阿部晴明の勧請と伝えられる立石熊野神社がある。

写真3: 立石熊野神社

SANY0040.JPG

江戸時代の地誌「四神地名録」によると、御神体は「神代の石剣」で極めて珍しいものと記されている。平安時代の熊野信仰は盛んで、花山法王が那智の滝で一千日の修行中邪魔をする天狗を同行した安部晴明が封じ込めて助けたと言われ、当社を勧請した安部晴明と熊野の深い関係を知ることができる。

鎌倉時代、葛飾に縁りある御家人壱岐守葛西三郎清重の崇敬を経て、更に江戸時代には三大将軍義光や八代将軍吉宗が、鷹狩りに当地にお成りの際や、徳川御三卿のひとつ田安家の度々の参拝の折には、必ず「金烏の守護」を献上したと伝えられている。「金烏守護」は、安部晴明が著したとされる陰陽道の秘伝書「金烏玉兎集」によるもの。

当時、紀州熊野三社の神にお使のヤタガラスと宝珠を象った霊験あらたかな牛王宝印は魔除け・厄除け・病気平癒等の守護として、全国に広まっていた。この烏はヤタガラスと言われ、神武天皇に関する「古事記」「日本書紀」の神話にあるカラスの名称だ。神武天皇が熊野から大和へ向かう途路、険悪な参道で道に迷った時、アマテラス大神が夢に現れ、ヤタガラスを先導とすることが教えられ、この烏の先導で無事大和に入ることができたと言われ、以来この烏を神のお使いとしている。日本サッカー協会のシンボルでもあるから、目にしたことがある方も多いだろう。また烏を囲む正五角形は、陰陽師安部晴明の陰陽五行説の木・火・土・金・水に象どり境内が造られていることに由来する。

ここから古代東海道はしばらく旧中川北岸を走るが、古代東海道に戻ると直ぐ南蔵院がある。

写真4: 南蔵院

SANY0041.JPG

開山は不明も、永享元年(1427年)正福寺第5世法印賢寛が中興した。宝暦5年(1755年)将軍放鷹の時、御膳所に指定される。

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_立石 南蔵院.jpg

旧中川北岸沿いに走る道から現在の奥戸街道へと古代東海道は移っていくが、その手前に永禄10年(1567年)覚元法師の創立の西圓寺がある。

写真5: 西圓寺

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旧原村鎮守、原稲荷神社、旧四つ木村鎮守、四つ木白髭神社を過ぎ、現在の水戸街道の手前に、嘉禄元年(1225年)創立、葛西三郎清重の館と伝えられる西光寺がある。

写真6: 西光寺

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寺伝によると、領主葛西三郎清重は幾多の戦功により、鎌倉将軍家から葛西領のうち3500町歩の地を得、晩年、葛西郡渋江郷(現在の四つ木)に閑居した。たまたま親鸞聖人が関東教化のとき葛西氏の館に留錫して、自ら阿弥陀如来の像を画いて与えた。清重は随喜のあまり聖人に帰依して弟子となり、西光房と号し、宅地内に一寺を建てたが、聖人の逗留中、五十余日の間、雨が降りつづいたので山号を雨降山といい、寺を西光寺と名づけた。以来、浄土真宗として法灯を続けたが、永禄7年(1564年)、国府台の合戦で兵火にかかり、寺運衰退し、さらにいくたびかの水害で無住状態となった。寛永年間(1624-43年)、天台宗の旅僧が止宿して、由緒ある法灯の絶えることを惜しみ、村民とはかって天台宗の寺として再興し、浅草伝法院の門末として、山号を超越山と改めた。当寺では、浄土真宗の行事である報恩講式(親鸞聖人の忌日に行う法要)を毎年行っているが、これは阿弥陀如来画像の霊告により、安永4年(1775年)以来、毎年4月8、9、10の三日間、執行されることを通例としている。

本堂の裏側宅地内に、清重稲荷を祀る社屋と、寺から100メートルの民家に囲まれた中に、清重塚という小丘がある。塚は葛西清重夫妻を葬った場所と伝え、寛永8年(1631年)建立の五輪塔1基と、明治の待つ、大槻博士の建てた葛西清重の記念碑がある。なおここから江戸時代に石棺が発掘され、中に多くの武器類が収められていたことが伝えられている。

荒川放水路を渡るとすぐに、旧善左衛門村鎮守の隅田稲荷神社があり、隅田川東岸の墨堤通りに交差して、古代東海道は終わる。

江戸名所図会にも描かれている。

江戸名所図会_渋江 西光寺 清重稲荷.jpg

以上
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2010年05月16日

20.行徳塩の道の地図

徳川家康が行徳を幕府直属の天領とし、「塩は軍用第一の品、領内一番の宝である」といって、塩業を保護、奨励したため、寛永9年(1632年)に塩を運ぶための水路、小名木川、新川が整備され、途中江戸川、中川、隅田川を通り江戸城内と本行徳は、直接船で結ばれることになった。

本行徳村は、この航路の独占権を得て、船着場が作られ、「行徳船」「長渡船」が就航するようになり、塩だけでなく、人や物資の運搬も盛んになった。行徳船を利用した著名人も多く、芭蕉、十返舎一九、一茶、渡辺華山、大原幽学などの記録がある。また、文化・文政のころからは、江戸で成田山詣でが流行し、行徳は船場、宿場として活況を呈した。日本橋小網町と下総行徳村を結んだこの船便は、明治に入ると蒸気船が登場し、水上交通は新しい時代を迎えた。

当時を偲ぶものとして、かつての船着場付近に常夜灯が残っている。

現代の地図


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明治初期の地図ではこうなる。

WS000004.JPG

以上
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