2010年05月29日

25.長島2

新川を東進し、江戸川との合流点へ。そこから長島川跡の道に入り、長島村に入る。

まず出迎えてくれるのがこの庚申塔だ。

写真1: 庚申塔

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庚申塔があるT字に入ると直ぐ智光院がある。

写真2: 智光院

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智光院を過ぎ、突き当りを右に折れると正圓寺がある。

写真3: 正圓寺

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文明年間(1469〜1486年)草創、文亀元年(1501年)中興と伝えられ、境内に笠付角柱型庚申塔がある。

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山門口を左に入ると、長島高城跡といわれている清光寺がある。

写真4: 清光寺

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文亀2年(1502年)開山。小田原衆所領役帳に、長島高城の記録がある。又、時代は下り寛延2年(1749年)の青山某が書いた葛飾記には、「ここは昔、長島殿と申す城主の城下の湊のよし」と記録されているところから、この辺りに長島高城があったと推定されている。長島地区のどの辺りか、と云うと、ここ清光寺の周りには、城に纏わる小字名が残っていることから、清光寺がそれであると推定されている。

清光寺を過ぎ、突き当りを左に入り、次のT字を右に入ると、善徳寺がある。

写真5: 善徳寺

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最初の庚申塔に戻り、長島川沿いに進むと、下今井香取神社がある。

写真6: 下今井香取神社

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境内に宝永元年(1704年)の年号が刻まれた石碑があり、創建はそれ以前と推定される。

写真7: 下今井香取神社石碑

100313_下今井香取神社1.JPG

そのすぐ隣に称専寺がある。

写真8: 称専寺

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清光寺の裏手に出る道に左折、清光寺の角で右折すると、400年以上前の創建といわれる旧長島村鎮守、香取神社(旧茂呂神社)がある。

写真9: 香取神社

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境内入り口の脇には庚申塔も。

写真10: 庚申塔

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そのまま道を進むと仁平2年(1152年)開山、応永18年(1411年)中興の東善寺がある。

写真11: 東善寺

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次のT字を左折すると自性院がある。

写真12: 自性院

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門前には、寛永8年(1631年)銘の観音菩薩庚申塔がある。

写真13: 観音菩薩庚申塔

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自性院を回り込むように道に入ると長島稲荷神社、梵音寺がある。

写真14: 長島稲荷神社

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写真15: 梵音寺

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承和14年(847年)、入唐八家の一人、慈覚大師による創立、寛永3年(1626年)中興の古刹。

承和14年(847年)、唐で仏教の教えを受けた慈覚大師は、唐から船で日本へ帰る途中、ちょうど船が葛西の沖にさしかった時、急に嵐が起こって今にも沈みそうになった。大師は、西方の天を仰ぎ、観音様に『この難儀を救いたまえ』とお祈りし、一心に普門品というお経を唱えたところ風がぴたりと止み、空に紫の雲が棚引き、その中に観世音菩薩のお姿が光輝いて見えたという。大師は早速筆を取り出し、そのお姿を衣の袖に描いた。こうして船は危うく難を逃れ、長島の港に着くことが出来た。

大師は早速"せんだん"の木で観音像を彫り、お堂を建ててこの像をおまつりし、そのお堂を海潮山梵音寺と名付けた。

長島川に戻ると桑川神社がある。

写真16: 桑川神社

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今日はここまで
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2010年05月27日

24.長島

東葛西の北部に位置する長島村は、葛西地域の中で最も歴史が古い地区である。太日川、現在の江戸川の河口に位置し、中世には陸地化していたと言われている。

この地域は河川交通の要所であった。上流には下総国の国府や香取海があり、長島には長島湊(長島の津)があって多くの船が行き来した。平将門の乱は、この香取海が齎す経済的利益や軍事的優位を巡る争いとも言え、下流にあった長島村の重要性も高まっていった。長島村の第一期はこの時代といえる。

葛西三郎清重が永万元年(1165年)(あるいは建久年間の1190〜1199年)に領地33郷を伊勢神宮に寄進し成立した葛西御厨の時代には、葛西御厨と国府の外港の1つとして栄えた。

葛西三郎清重死没の暦仁元年(1238年)以降、伊勢神宮への御厨としての勢いが衰えたのか、南北朝時代の1372年(文中元年/応安5年)には、香取神宮の河関(灯油料所)が設けられた。

戦国時代には長島高城があったという説がある。清光寺がその跡と言われている。現在でも一帯は微高地になっている。

1559年(永禄2年)の長島は後北条氏の重臣、太田康資の領地の1つだった。近隣では数度に渡って国府台合戦が行われた。1563年(永禄6年)の第二次国府台合戦は、太田康資が里見氏に寝返った事が開戦の発端となった。この時、負傷した里見義弘を助けて落ち延びた1人が篠原伊予(安西氏)で、後に北小岩に伊予新田を開発した。子孫は長島村に移住し、名主の1人となった。

江戸時代には、南部の開発が進んだ。旧江戸川沿いに雷(いかずち)、新田仲町通り沿いに仲町などの集落が出来た。

長島村.JPG

明治初期の地図に、長島地区の史跡、旧道をmappingしてみた。
妙見島の西側の旧長島村地区、南に下って旧長島村飛地の中割地区以外は全て水田で、長島村が栄えていたことが分かる。

現在の地図


より大きな地図で 長島村 を表示

以上
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2010年05月23日

23.葛飾地域の主要道路

葛飾旧道.JPG

古代官道、岩槻道、行徳道、元佐倉道、佐倉道を、明治初期の地図に重ねてみた。

こうして見ると、幾つかのテーマが浮かび上がる。

平安の時代、武蔵の国の国府から下総の国の国府に向かう古代官道、これは、両国府を最短距離で結んだ結果、この道となっている。

葛飾という地域は、江戸川を挟んで西側を葛西、東側を葛東と呼んでいたが、葛西地域では、最短距離で結んだ結果、小岩がGatewayになっている。

江戸時代の初期、徳川としては、ついこの間まで戦っていた大名に油断を見せられない。だから、江戸への流入口を幾つも幾つも設けるわけにはいかない。しかし、全く無にもできない。それを、平安の時代からGatewayとして存在していた小岩に設定したのだろう。佐倉道、元佐倉道も、小岩を通る道筋となっている。

1つ目のテーマは、葛西の玄関口、小岩、そして、葛東の玄関口、市川である。

戦国時代、葛飾地域を納めていた北条氏は、行徳の年貢を塩としていた。行徳の塩は、岩槻道を通って岩槻に運ばれていた。

江戸時代に入り、徳川も行徳の塩を大切にし、行徳道、新川、小名木川を作る。

2つ目のテーマは、行徳である。

徳川の時代の後半、当時の最先端レジャーだった、成田山、千葉寺参詣の為に、行徳から船橋に抜ける成田道が作られている。この道は関所も無く、庶民が自由に行き来できた為、又、船での旅ということもあり、良く利用された。

テーマ1の小岩・市川の時代はとにかく小岩からしか外へも中へも行けないように苦心していたのに、同じ徳川時代でも、その時代から長く月日が経っていること、その月日は平和だったということを、象徴的に、この行徳からの成田道は表している。面白い。

3つ目は神社だ。葛西御厨であったことを現し、天祖神社が多い。次に多いのが香取神社、その次が白髭神社だ。天祖神社と香取神社、白髭神社をmappingして、俯瞰してみてみたい。

4つ目は鷹狩り、御膳所だ。これもmappingして俯瞰で見てみたいと思う。

5つ目は、水である。川、堀、用水。東・中・西井堀を紹介済みだが、その支流はまだだ。地図を見ると、支流はたくさんありそうである。

6つ目は絵、広重、江戸名所図会等で描かれた地を見て回りたい。

7つ目は村、集落だ。明治初期の地図を見るとよく分かる。江戸川区は、ほとんどが田んぼだった。が、所々に集落があり、村になっている。そこが今はどうなっているのか、尋ねてみたい。

堀、道を通して、幾つかのテーマが浮かび上がった。次回以降は、こうしたテーマに沿って、掘り下げていこうと思う。

以上
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