2012年01月01日

新しいブログ

http://yogismessage.blogspot.com/

ブログの引っ越し先ですが、上記となります。
まだまだ引っ越し中ですが、ご覧いただければと思います。
又、お気に入りに登録していただいている方は、お手数ですが、変更をお願いいたします。

以上
posted by Yogi at 11:08| 東京 ☁| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月03日

お知らせ: ブログの引っ越し

私の拙いブログをご覧いただいている心優しい皆様

この度、無料で利用できる容量の限界が近づいて来た為、又、友人の勧めや、是非、外国の方にも我が日本の歴史を知っていただきたいという思いから、FacebookやGoogle+への引っ越しを、ちまちまと進めております。

引っ越しは、ユーティリティを使わず、記事の再編集も兼ね、一つ一つ進めております。

もし、よろしければ、訪れていただければと思います。

以上
posted by Yogi at 09:55| 東京 ☔| Comment(2) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月16日

江戸川区(葛飾)の歴史 B-1古墳時代

古墳時代とは、3世紀後半から8世紀初頭までの時代をいう。ちょうど、奈良時代に差し掛かる頃までだ。

葛飾には、古墳時代の遺跡が、葛飾区に12ある。(江戸川区には無い。)

・遺跡番号2 金町浄水場内遺跡
 低地 包蔵地
 [古]

・遺跡番号5 古録天遺跡
 低地微高地 集落 [奈][平]住居 土坑 溝 [中]溝 [近]土坑
 [古][奈][平][中][近]

・遺跡番号6 柴又八幡神社古墳
 低地微高地 古墳(円墳) [古]横穴式石室 周溝 区史−柴又八幡神社の古墳石槨
 [古]

・遺跡番号7 新宿町遺跡
 低地微高地 集落 150×80m [古]住居
 [古]

・遺跡番号11 立石様
 低地微高地 古墳 [古]石室?
 [古]

・遺跡番号12 南蔵院裏古墳
 低地微高地 古墳
 [古]

・遺跡番号13 熊野神社古墳
 低地微高地 古墳(円墳) [古]周溝
 [古]

・遺跡番号20 柴又八幡神社遺跡
 低地微高地 集落 [奈][平]住居 井戸 [近]溝
 [古][奈][平][中][近]

・遺跡番号22 本郷遺跡
 低地微高地 集落 [古]住居 竪穴状遺構 土坑 小鍛冶工房 [奈][平]ピット 土坑 井戸
 [近]ピット 井戸 溝
 [古][奈][平][中][近]

・遺跡番号24 鬼塚遺跡
 低地微高地 集落 [古]掘立柱建物 土坑 井戸 溝 [奈][平]掘立柱建物 溝 井戸
 [中]ピット 溝状遺構 [近]井戸 水田
 [古][奈][平][中][近]

・遺跡番号28 立石遺跡
 低地微高地 集落 [中]掘立柱建物 井戸 土坑 溝 杭列
 [古][奈][平][中]

・遺跡番号29
 低地 包蔵地
 [古]

地図を見てみよう。


より大きな地図で 葛飾 古墳時代 遺跡地図 を表示

江戸川右岸の微高地、柴又地区と、中川が中川放水路と分流後の旧中川両岸、立石・奥戸地区に集中している。

柴又は元、「嶋俣」で、「嶋」は文字通り島を表しており、微高地を表す。立石・奥戸は今となっては地盤沈下による海抜マイナス地区だが、やはり、川沿い微高地が故であろう。

この内、現代でも痕跡がある、あるいは、ありそうなのは、 寺社と鬼塚だけだ。

それでは早速、現場視察である。

まずは、立石地区の熊野神社古墳から。

[熊野神社 拝殿]

cameraroll-1316163055.309895.jpeg

ご覧の通り、今はただの神社で、墳丘のような地面の盛り上がりもなく、痕跡が見当たらない。唯一、らしきものは、境内社の天神様である。 直径約2mの円状の土の盛り上がりに社が立っている。

[熊野神社 境内社 天神様]

cameraroll-1316163062.208444.jpeg

[熊野神社 出土品]

IMG_0748.JPG

昔はどうだったか。江戸時代の様子を江戸名所図会で見てみよう。

[江戸名所図会 立石 南蔵院 熊野祠]

江戸名所図会 立石 南蔵院 熊野祠.gif

手前が南蔵院、奥が熊野神社である。熊野神社は、田んぼの中の少し高い土地に建っているように見えなくも無い。 墳丘の上に建てられたのであろうか。

次は、すぐ隣の南蔵院裏古墳である。

[南蔵院裏古墳]

cameraroll-1316163073.746870.jpeg

IMG_0757.JPG

画面左に茶色のマンションが見えるが、そのマンションの建設時に、多数の出土品が出たそうだ。写真はその内の一つ。

次は、すぐ隣の立石様。

[立石様]

cameraroll-1316163067.847820.jpeg

cameraroll-1316163070.774864.jpeg

今はすっかり埋まってしまっているが、江戸時代は、もう少し、露出していたようだ。

[江戸名所図会 立石村 立石]

江戸名所図会 立石村 立石.jpg

「立石村五法山南蔵院といへる真言宗の寺境にあり。地上へ顕れたる所わずかに壱尺ばかりなり。土人相伝へて、石根地中に入る事その際りをしらずといへり、石質弱にしてその色世間に称する鞍馬石に似たり。この石寒気を帯ぶればこゝかしこ欠け損ず。されども春暖の気を得る時は又元の如しと云へり。古はこの石によりて近郷四五箇村の名とせしが、分郷となりしより後はこの村のみいを立石とよべりとぞ。 」

と、当時、1700年代は、30cm程度の高さがあった模様。

新編武蔵風土記稿 葛飾郡之四でも、

「稲荷社 立石稲荷と号す。これも神体石にて直径二尺許、高さ一尺程。下は土中に埋り其形伏牛に似たり。此石冬はかけ損じ、夏に至れば元の如くなれり。かく寒にかけ、暑に癒ると云は活蘇石なるべし」

と、やはり30cm程の高さだったらしい。

江戸名所図会では、立石の地名の所縁だとも。が、新編武蔵風土記稿 葛飾郡之四では、

「立石村は村内熊野社の神体立石なるより起れる村名なりしと土人伝へり。且古は地域も広くして今の川端、中原、梅田、四ツ木、篠原、原濱、須野等の村々当村の内なりしよし是も土人の口碑に残れり」 「熊野社 村の鎮守なり。神体は石剣にして長二尺余。村名もこれより起れり。相伝ふ、当社は安倍晴明が勧請なり、社地は五行にかたどりて五角なりしと。今も其形残れり。南蔵院持」

と、あり、どちらが本当なのか。風土記の方が新しいが。

さて、この立石様。まだある。この、立石古墳群の付近には、古代東海道が東西に走っているのだ。「立石」という地名は、西日本などでは、街道沿いのマイルストーンとして、地名となっているところもあり、ここ、葛飾区立石も、そうだろうとのことだ。

[古代東海道]


より大きな地図で 立石古墳群と古代東海道 を表示

立石のこの石。古墳の石棺の一部ともマイルストーンとも言われているが、そもそも、ここ、東京低地には石が無い。川や海に運ばれた土砂か火山灰だからである。ではこの石は何か。立石の石は、その性質と貝の跡から、鋸山から採取された房州石と言われている。古墳時代、房総から、この重い石を運んだのである。その技術の高さも凄いが、律令制が浸透する前のこの時代に、現場同士のボテナムアップ型交流があったというのが興味深い。

次は、鬼塚遺跡。

[鬼塚遺跡]

cameraroll-1316163077.579190.jpeg

ようやく、古墳らしい姿が見られたが、残念ながらこの塚は室町時代に造られたものであり、古墳ではない。

しかし、ここ立石・奥戸周辺は非常に充実している。何かある。。。

柴又周辺は次回

以上
posted by Yogi at 19:01| 東京 ☀| Comment(0) | 町・村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。